大股開き - 小説

大股開き 序章

文久二年十二月二十六日

 其処もと、山口殿であられるか。

 道場での稽古の帰りに、牛込の通りで呼び止められた。羽織袴姿の男は、目前に立ちはだかると書状を突きつけてきた。書状には果たし状とあった。

「橋本信三郎からだ。確かに渡したぞ」

と言って、男はきびすを返すと元来た道を引き返して行った。その後ろ姿を見詰めた後、手に持った書状を開いた。

 貴殿に決闘を申込む

 三日後十二月二十九日未八つ

 小石川関口石切橋袂にて

 橋本信三郎。旗本の次男坊。もう一年近く前に上野の剣術道場で出合った相手だ。流派の違う道場に手合わせを願って門を叩いた。だが自分が右差しで有ることを理由に鼻先で笑われた。のらくらと稽古場に通された後、門人に取り囲まれた。一歩前へ出て来た男が橋本だった。木刀の切っ先が自分に向けられ、右肩を強く突かれた。正座をしていた自分は、そのまま脇においていた刀に手をかけた。橋本は嘲笑しながら、

「暇つぶしにはなる一本だけ勝負してやろう」

 と言った。勝負は、一瞬で終わった。構えから一気に突きで攻め、初太刀で仕留めた。胸を突かれた相手は、足を滑らせ無様に尻餅をついてひっくり返った。道場に居た他の者は皆驚いていたが、誰かが笑いだし、それをきっかけに皆が大笑いした。嘲笑う連中。元の位置に戻り礼をしてから、木刀を仕舞い道場を後にした。門前払い。そうでない場合は、必ずこのような流れで終わる。行き場のない思い。勝負に勝っても、すっきりせぬ。足早に地面を踏みしめる草鞋は砂埃を立てた。

 あれから、もう一年近く経った。

(今になって、果たし合いなど……)

(だが、ここで臆したとなれば、一生そしりを受ける)

書状を懐にしまった。三日後の午後。それまでに、必要な事は全て滞りなく終えよう。あと三日。

*****

文久二年三月

 時は遡り、今年の春のこと。

 市谷甲良屋敷にある試衛場の門を叩いた。上野の道場を追われた自分は、西方面に向かうしかなかった。鬱屈とした冬の日々を経て、ある日急にふと通りの反対方向に足が向いた。あれは今年の彼岸過ぎ。まだ桜が咲き始めた頃だった。雨上がりの冷える朝に本郷弓町の自宅を出て市谷に向かった。甲良屋敷の門には「天然理心流試衛館道場」と木の看板が掲げてあった。そこで、沖田総司に会った。初めての手合わせで初太刀を躱され、相手の突きを思い切り鳩尾に受けた。その衝撃。出来る相手に自分は生まれて初めて出会ったと思った。驚きはそれだけではなかった。一本を取られているのに、自分は剣を止めることができなかった。

(やってやる。やらねば、やられる)

 緊迫した思いと快感が全身にみなぎった。剣を激しく合わせると、相手は同じように睨み返しながらも、笑顔を見せた。それはいつも自分に向けられる相手を嘲るようなものではなく、本当の楽しみを見つけた者が見せる歓びの光。自分もおそらく同じような表情を見せていたのであろう。後ろから羽交い締めにされて動きを止められるまで、互いに無我夢中で撃ち合い続けた。

 それが総司との出逢いだった。そして、道場に居た門人達。皆が、自分の剣の強さに舌打ちをして感心した。

「あんた、強いな」

「山口殿といったな。次は俺と手合わせを願う」

「こんな、ヒヤヒヤする仕合は久しぶりだ。いいもの見せて貰った」

 それまでは、自分の剣は人を不快にさせるものだと思っていた。己の強ささえ、人の反感を買う。右差しというだけで蔑まれ、忌み嫌われる。どこにも行き場がない。どんなに精進してもやりきれぬ。やり場のない思い。憤る想いを、独りで剣を振っては、紛らわせてきた。

(この様に、手合わせを願われるとは。俺のような者を)

 その日以来、ずっと試衛館道場に通っている。最初は月初めに月謝を納めた。だが、道場主の近藤勇はそれを受け取らず、代わりに他道場へ出稽古に行ってもらいたいと頼んできた。それは五月の半ば頃だった。天然理心流師範代の総司以外にも、土方さん、神道無念流の新八、北辰一刀流の平助、槍術の種田流を教える左之助が、皆で持ち回り、他道場に出稽古に出ていた。出稽古にでれば、試衛館に実入りがあり、利に適っているからだと説明を受けた。食客の新八達とは違い、自宅から通いの者には、少しだが謝礼も渡すという。嬉しかった。自分の剣で、金を得る事ができるなど。考えたこともなかった。そして、自分が人に剣術を教える日が来るなど。夢のようだ。

 その日は、ふわふわと宙を浮く足取りで道場から通りに出て帰ったのを覚えている。そして、その翌日から早速出稽古に出向いた。最初は、伝馬の道場。門人は、六名。そこに通いで数名の士族の子息が来ていた。若い者は十五から、四十に届く者まで。伝馬には、土方さんと出向いた。朝早くに、水戸藩屋敷の北門前で待ち合わせて歩いて伝馬に向かった。土方さんは足早に歩く。道すがら、これから向かう道場の門人について教えてくれた。手のかかる者、気性の荒い者、逆に大人し過ぎる者など。黙って聞いていると、

「お前も、大概無口な、大人しい質だがな」

 と笑われた。

「だがひとたび、剣を握らせたら竜虎の如く。ま、そんなところだ」

 振り返って自分に笑いかけた土方さんの顔が逆光で眩しかった。自分の剣を褒められたのが嬉しかった。強いことを、そこを認めて貰えた。

 あれから半年。毎日が出稽古と道場での精進。充実していた。時折、神道無念流の道場、上野練兵館に出向くこともあった。周辺には、他の道場も点在している。幕臣が通う練兵館は、常に多くの門人を抱えていた。新八が元々通っていた道場であった事もあり、ここの出稽古には、近藤先生、新八、総司と一緒に通うことが多かった。この界隈は、自分が昔、道場荒らしとして虱潰しに門を叩いていた。上野界隈で剣術を学ぶ者たちの中で、元道場荒しの無法者が練兵館で剣術を教えているという噂は直ぐに広まった。

 おそらく、近藤先生の耳にも入っていただろう。だが、先生は出稽古に出ることを控えろとは決して言わなかった。

「稽古に出向く時は、必ず誰かと一緒がよい。総司か永倉君がよかろう」

ただそう言って、先生は頷いていた。

*****

文久二年五月

上野寛永寺界隈

 まだ夏ではなかったが、昼から急に日差しが強く気温が上がった日。総司と一緒に練兵館に稽古に出た。道場は蒸し風呂のように熱く、昼過ぎに稽古を終えた時には、二人とも汗だくだった。総司に誘われて近くの湯屋に直行した。寛永寺に向かって大通りから道をそれたところで、袴着の男達に囲まれた。

「のう、誰かと思ったら。右差し先生に田舎侍か。練兵館もこのような者たちに剣術を指南させるなど」

 楊枝を咥えた男が、皮肉な表情で笑った。

「へえ、軟弱さんは、どこのへぼ道場にお通いですかね」

 と、総司は言いながら、首を少しだけ動かして合図を送って来た。咄嗟に総司が左側に立ち、二人で背中を合わせた。 

「総司、一気に行くぞ」 

そう口にする前に、相手は襲いかかって来た。総司が抜刀した。自分が先に斬り込んだつもりだったが、背後で激しくバタバタという音が聞こえる。一人目、二人目を打って倒れたところを振り返ると、総司は抜いた刀を仕舞わずに、肩に載せたまま、地面に伸びた男達を、足で蹴りながら数えていた。

「さーんにん、よにん、っと。峰打ちだよ。血は出てないからね」

 最後の男が顔を上げたところを、足の先で顎をひっかけて向こう側に倒した。刀を仕舞って自分の袴の埃を払うと、

「行こうか」

と、笑顔で総司は歩き始めた。狭い通りには人だかりが出来ていた。

「汗だくな上に、土埃って最悪。着物も洗ってしまいたいね」

「ああ」

「この先の燕湯。僕、留め桶してあるんだ」

「はじめくんもそうしなよ。ひと月で三文。高いけど、漆の塗ったいい桶を置いてくれる」

 漆塗りの桶。そんな代物。生まれてからこのかた見たことがない。総司は、鼻歌を歌っている。さっきまで刀を振るって荒ぶっていたのに、落ち着いたものだ。

「僕ね、こう見えても。綺麗好き。清潔なものにお金の糸目はつけない」

「はじめくんも、そうだよね。随分几帳面だし」

「褌も真っ白だもんね」

 自分の褌を見て几帳面だという総司が不思議だった。確かに、褌は真っ白なものを身につけている。それは普通であろう。

 そんな話をしている内に、広小路の燕湯についた。総司は自慢の留め桶を持って、湯殿に入ると汗を流した。汗だくな上に埃まみれだった身体に湯をかけて流すと、すこぶる気持ちが良かった。総司は、隣に座る男から、へちまを受け取ると、気持ち良さそうに背中をこすっている。

「これ、いいね。たっつあん」

 笑って話す総司の声を聞いて、となりの男の名が「辰」だとわかった。辰は気前よく、「旦那もどうぞ」と自分にもへちまで身体を擦れと勧めてきた。背中をこすると、ざらざらした感触で気持ちが良い。一通り身体を洗うと、親切な辰は湯をたっぷり掛けて背中を流してくれた。

「ありがたい。気持ちがよい。礼をいう」

「いつでも、どうぞ」

と、辰は満面の笑みを浮かべた。総司は手拭いを持って、湯船に浸かった。

「あー、気持ちいい」

 総司は湯を掬って顔に掛けて頬をぱんぱんと叩いている。湯船はちょうどいい深さで段ができていて腰掛けられるようになっていた。この湯屋は、気が利いている。湯も熱くてよい。そんな風に思いながら寛いでいた。

「ねえ、たっつあんとこんな時間にここで会うのも珍しいね」

 総司が、湯船に浸かりだした辰としゃべり始めた。

「いやねえ、旦那。もう、あたしはね、今日で十六日目。休みなく店出してんですよ。仕込みで夜中まで。湯屋にも来れねえ。いい加減にしやがれってね。さっき、かかあの奴に文句言って、店を放り出して来たんですよ」

「へえ、随分忙しいみたいだね。縁日でもあったの」

「いんえ、若様。かいつまんで話すと、店におみおが来たからですよ」

「おみお? 誰、それ」

「今月に入ってから、うちに手伝いに来てるおみおって女ですよ」

「これがね、まあ別嬪で色っぽい。いい女が団子屋にいるってんで、噂になったらしくて」

「へえ、おみよちゃんも看板娘なのに、そんな女のひとが来たんだ」

「それが、若様。おみよはね。先月いっぱいで故郷に帰ったんですよ。船橋村へね」

「おみよのおっかさんが病で亡くなりましてね」

 総司の顔から笑みが消えた。

「うちのかかあも、おみよには頼りきりだったもんで。手が回らなくなっちまいやして。急遽、口利きで谷中に暮らすおみおさんに来て貰うことになったんです」

「なんでもね、元は商家の妾の娘で、器量の良さから日本橋の大棚に正妻にって見初められたそうで。ですが、その旦那が一年もしねえ内に亡くなって、子もいなかったから追い返されましてね」

「独り身で、働く当てもないってんで。うちに来て貰ったんです」

「それが、まあ。水もしたたるいい女なんですよ」

 辰はそう言うと、総司の顔を覗き込んだ。

「若様、聞いてます? あたしの話」

「うん」

「初めて、うちに顔を見せに来た日もね。こう、畳に手をついて、おみおと申します、ってね」

 辰は手拭いを頭に被って、両手を付く真似をした。総司は、小さく吹き出しながらその様子を見ている。

「さんずいに、雨に、令と書きます。なんていってね」

「宙に名前を書くんでございますよ。その動かす時の、手が白魚のようでね。あたしゃ、字が読めないでしょ、んなもんで、その指に見とれちゃいやしてね」

 辰は、ぐふふふ、と破顔している。

「かかあの奴は、こんな器量良しが、うちみたいな団子屋に来て貰えるなんて滅多なもんじゃない。そう言って喜びましてね」

「うちは、おみよが居た時でも繁盛してたんですが。このおみお目当てに来る男衆で、客が途絶えない。行列まで出来る始末で」

「へえ、凄いね」

「するってえと、変な噂に尾ひれがついて。うちの団子屋がおみおの客引きで、話がまとまれば、裏の家でお相手を頼めるなんてね。新手の『水茶屋』呼ばわりでございますよ」

「これには、うちも困っちゃいましてね。行列を作って待ってるお客様に、え、お宅様は、お団子で?、それともお澪でございますか? なんて、訊けやしません」

「じゃあ、お澪さんって注文できるの?」

「まさか、旦那。出来るわけございやせんよー」

「うちは、団子しか出しません。おみおは、お茶くみでござますからね」

「なーんだ。てっきり、そういう商売を始めたのかと思った」

 総司は、湯船の縁にに両腕を伸ばして掛けて、ふんぞり返った。

「この後にでも、どうぞお立ち寄りください。腕に縒りを掛けて団子をご用意しますんで」

 辰は、会釈しながら笑顔で湯船から上がって行った。自分達も、一旦湯船を出て、水を頭からかぶってから上がった。

「ねえ、はじめくん、これ」

 総司が桶の裏底を返してみせた。小さな木刀がしまい込まれている。なんのために。訝しがる自分に、総司は湯屋で絡まれる時に役立つと教えてくれた。時々、他道場の者と、ここでも鉢合わせするらしい。仕舞い刀か。留め桶に用意できるなら。自分もここに置こうと決心した。

 湯屋から出ても、まだ日が高かった。うだるように熱い。それに腹も減った。総司が、ねえ、たっつあんとこへ行こうよ。そう言って、寛永寺に向かって歩いていった。境内に入って、すぐ左手に行列が見えた。

「あれ、ほんとうだ。あれだよ。団子屋。見事に男衆ばかりの行列だね」

 総司は、指さして笑っている。二人で歩いていった。ちょうど日陰になったところに行列ができていて、思ったほど暑くもない。そのまま列に並んで、団子屋の中を遠目に眺めた。

「ねえ、はじめくん。あれ、あそこにいるの新八さんじゃない?」

 総司の眺める先に、新八が居た。茶屋の店先で丁度、外の椅子に案内されて腰掛けた新八が見えた。総司に誘われて、列から抜けると、新八に声を掛けた。新八は驚いた様子で、「お前らか」と笑っている。

「うん、僕らは出稽古の帰り。一旦湯屋に寄ってから、お団子を食べに来た」

「そうか、今日は練兵館の日か。俺は、今日は非番だ。賭場は夜からだしな」

「へえ、じゃあ、寛永寺にお参りに?」

「ちげえよ」

 大きな声で否定すると、総司と自分に頭を低くさせて耳打ちした。

「俺は、あれよ」

 と言って、新八は椅子の後ろで給仕をする女を顎で差した。

「すっげー別嬪だろ?」

 横目で、そっと見てみた。すらりとした女が、襷掛けでお盆を持っている。白粉を塗った首筋が細くて、こっちを向いた時に見えた顔が確かに、妖艶な感じで美しかった。

「お前等も、ほら、ここに掛けろ。見たか?見たか、山口?」

「さっき、団子を頼んだから持ってくる。その時にな、これをな」

 新八は袂から小さな点袋を取り出した。桃色の和紙で出来ている美しいものだった。

「ここに五十文いれてある。これをよ、お駄賃だ。とっときなって渡す。どうよ?」

「いいんじゃない? お駄賃にしちゃあ、随分気前がいいね」

「まあな、ここでけちっても仕方あるめえ」

「ふうん。でも、お茶くみのお駄賃でしょ。それとも、新八さん」

 そう総司が言いかけた時に、新八は、「来た、来た、お前ら、黙っとけよ」、そう言って、身仕舞いを正した。お澪が団子の載った皿を置いて、総司と自分にも湯飲みに入ったお茶を置いた。総司はお団子四つと注文した。新八が、俺の奢りだと御代を払った。自分は総司と一緒に礼を言った。

「ねえさん、これを」

 新八は、気取った声を出して、お澪に点袋を渡した。

「とっておけ」

 いつもより低音の威厳を持った雰囲気で。隣に座った総司と自分は吹き出しそうになるのを堪えるのに必死だった。お澪は、「もう、御代はさっき頂きました」、と言って受け取るのを拒否した。いいから、とっておけ。あくまでも、新八は、気取った雰囲気を纏い続けるつもりらしい。しばらくの間、押し問答が続いた、すると、店先から、女将が出てきて、新八の点袋をお澪から受け取ると、「どうも有り難うございます。またのお越しを」と言って、大仰に頭を下げた。その後ろで、お澪も頭を丁寧に下げていた。

 新八は、お澪にすっかり鼻の下を伸ばしている。お盆を持って下がっていく女の後ろ姿を眺めながら。

「小股の切れ上がったいい女だ。ありゃあ、いい」

 しきりに感心している。総司と自分は女将が持ってきた団子を食べた。美味い。確かに、辰の作る団子は絶品だった。お茶を注ぎに来た女将が、総司に挨拶をした。

「若様、本当にご無沙汰でございますね。おみよがね。先月、船橋村の国元に戻りましてね。最後まで、若様がお見えにならない、って残念がっておりました」

「これをね。若様がお見えになったらって預かったんですよ。やっとお渡しできます」

 女将が総司に渡したのは、浄名院のお守りだった。へちま様で有名な、咳封じのお守り。総司は、手渡されたお守りをじっと見詰めている。

「春先にお見えになった時に、若様が咳が続いてたって、お帰りになった後も、おみよは心配しましてね。へちま様のお守りを貰ってきたって。若様がお見えになったら、渡すって言っておりましてね」

「先日急に国に戻ることになったんで、若様がお見えになったらって言付かったんでございますよ」

 じっと手のひらのお守りを見詰める総司に、女将は言った。

「ほんとに、心根のやさしい、いい子でございました。わたしは、おみよを実の娘みたいに思っていましてね。傍に居ないのが、寂しゅうございますよ」

「若様、どうか。そのお守りをお大事にしてやっておくんなさいませ。あの子は、若様のことをね、ほんとうに大切に気遣ってましたからね」

 そう言って、笑うと「どうぞ、ごゆっくり」と挨拶をして女将は下がっていった。

「若様って」

 新八が笑っている。

「ここのご主人の辰さんが。なんでか、初めて僕がここに来たときに、お大名様のご子息がお忍びで見えてるのは伺っておりやすよ。若様。あっしの口は堅うございます。若様の事は、口が裂けても誰にもってね」

「誰かと勘違いしてるみたいでね、面白いからそのまま僕はずっと、辰さん夫婦からは、大名息子がお忍びで市中で遊んでるって事になってる」

「なんだ、いいだせねえのか。正体を。いいじゃねえか、そこの道場で剣術教えてる士分だって、堂々としてればよ」

 新八は、笑って団子の櫛を楊枝がわりにしている。総司はずっと微笑んだままでいる。

「ま、おみよちゃんには、若様って慕われてたみたいだからな、今更引き返せねえか」

 そう言って、新八は笑うと。これから浅草まで足を伸ばさねえかと誘って来た。

「どうだ、もう日も暮れてきた。ちょいと仲をのぞいて、いい子がいたら茶屋に上がってよ」

「僕、今日は帰るよ」

 総司は、草鞋の紐を結び直した。明日も早いからね。そう言って、立ち上がった。

「山口はどうだ?一緒に行かねえか?」

 自分も気乗りはしなかった。直ぐに帰って、刀の手入れをしたい。そう言って、断った。

 新八は、「じゃあ、俺は伝馬の道場に顔だして、平助でも誘うか」と言って、そのまま境内の入り口で別れた。

***

「ねえ、一緒に行ってもよかったんじゃない?」

 と言って振り返る総司に、自分は何も応えずに黙っていた。

「さっきみたいに、人と渡り合った後はさ」

「気持ちが高ぶって、夜眠れないって。よく左之さんが言ってるよ」

「喧嘩や争い事の後に、飲む酒と抱く女は格別だってね」

「僕は、どんな手合わせや喧嘩をしても、そんな気にはならないんだけどね」

「俺もだ」

 自分が同意すると、総司は笑った。「へえ、そうなんだ」そう言って嬉しそうにしている。

「じゃあ、さっきの綺麗な後家さん見ても、なんとも思わなかったの?」

 総司は、自分の顔を覗き込むように尋ねてくる。

「ああ」

 そう応えるしかなかった。総司は「ふううん」と言って、笑っている。

「なんだ?」

 総司の揶揄するような笑い方が気になって訊きかえした。総司は、暫く歩くと、僕は吉原の女があまり好きじゃないと呟いた。

 白粉の匂いが嫌い。

 真っ赤な紅も。

 けばけばしい格好もね

 ほんのりと桃色の唇が好き

 うなじもそのままの肌の色がいい

 えくぼが出来る

 笑顔がかわいい

 瞳の大きな女が好み

 お日様の下で眺めていたい。

「はじめくんは?」

 一通り、女の話をすると、総司は自分に好みの女はどんなだと尋ねて来た。自分は、総司の好みの女の話は、さっきの団子屋に居たおみよという娘のことだろうかと、ぼんやりと考えていた。

「ねえ、はじめくん聞いてる?」

 総司は、しつこく尋ねてくる。

「俺は、女子はよくわからぬ」

「へえ、でも女は知ってんでしょ?」

「ああ」

「じゃあ、どんな子がいいとかないの」

「ああ」

「じゃあ、さっきの後家さんは?」

「いい耳をしていた」

「耳?」

「ああ」

「まともに見てはおらぬが、綺麗な耳だった」

「……はじめくんって、助平だね」

「なにがだ」

 総司は笑いながら、「さあね」というと前を向いたまま歩いた

 総司に団子屋のおみよのことは詮索はしなかった。おみよは、きっと総司と恋仲だったのだろう。

つづく