小説 - 庇の影

庇の影 序章

我々の中にあふれた多くのものは、我々を我々自身の外に放り投げる

大胯びらき

元治元年六月

「斎藤さん、こちらへ」

 巡察を終えて河原町から屯所へ戻る道すがら、四つ辻を過ぎて歩いていると雪村千鶴に呼ばれた。朝から陽射しは厳しく、無風の通りは砂埃の向こうに陽炎がゆらゆらと揺れていた。

「斎藤さん」

 再び名を呼ばれた。雪村千鶴が自分を手招く様に腕を伸ばしている。

「こちらへ、日陰は涼しいです。こっちを歩いてください」

 先を行く三番組の部下たちは、既にばらばらに散らばって歩いている。このように巡察を途中できりあげる午後は、隊列を解かれ皆が自由に屯所に戻る。先日起きた池田屋の騒動の後、しばらく巡察随行を控えていた雪村が久しぶりに屯所の外に出た。今日はこのまま雪村と一緒に屯所に戻るつもりだった。

 南側の建屋の庇の影は、確かに人が二人並んで歩くのに十分な幅があった。右差しの自分は、すれ違う者に刀が当たるのが嫌だ。往来を歩くのは、自分なりに気遣っている。確かに京の町のうだるような暑さは、その陽射しを避けることで幾分か凌ぐことができるだろう。

 言われるままに庇の影を踏むように歩いた。だが雪村は再び自分の名前を呼ぶ。一体なんだ。そう思った瞬間、袖を引っ張られた。「もっと庇の影にはいってください」と言う。雪村のいささか強引な様子に思わず立ち止まった。

「なにゆえ、影に入らなければならぬ」

「涼しいからです」

 自分を見上げる雪村は、その額に前髪が汗で張り付いている。上気した顔。よほど暑いのだろう。こめかみから汗が流れている。「こちら側を歩いてください」と再び強く肘を引いて、雪村は自分を庇の内側に立たせた。やれもやれもという表情の雪村を見て、思わず笑いが込み上げてしまう。自分は一歩踏み出すように再び庇の影から外に出た。

 背後で草履が地面を蹴る音がした。雪村が追いかけて来る。日陰には入らずに歩き続けた。息を切らして自分に追いついた雪村は庇の影にまた自分を引っ張ろうとする。自分は歩を止めて説明した。

「影に入れば涼しい。だが、庇の影に目が慣れると通りで斬りあいになった時、相手の動きを見誤ることがある。このような陽射しでは尚更だ」

「相手の抜いた刀に陽の光が当たると、目くらましに遭う。日向を歩くと俺の眼は光に慣れる」

 雪村はようやく納得したようだった。それからは何も言わずについてきた。この暑い中を無駄に走らせてしまった。次の四つ辻の茶屋で飴湯を買ってやろう。雪村は屯所に戻れば、直ぐに洗濯を取り込みに中庭を動き回る。

 間もなく着いた茶屋の店先で、竹椅子に雪村を腰かけさせた。大きな番傘は丸く地面に影をつくっている。雪村は、「飴湯、大好きです」と嬉しそうに笑った。

「俺はここの飴湯しか飲まぬ。総司は、二条の宇田川屋の飴湯が冷たくて美味いと言っているが、ここは生姜が沢山入っていて香りがよい」

「そうですね。とても甘くておいしい」

 少しの休憩だったが、雪村は幾分か汗が引いて楽になったようだった。それから壬生村に向かう通りをゆっくり歩いて帰った。道に出来る建屋の影が一本の線のように目前に連なっている。陰と日向。光と影。明暗。己の行く道。

 そんなことを考えながら砂埃が立つ地面を踏みしめた。

******

駿州の道行

文久三年一月

 江戸を出立し箱根の関を超えてから三日で駿州府中宿に着いた。

 晴天続きで日中は歩いていると身は温かい。遠く江戸を離れ駿府まで来た。前年の暮れ、江戸で人を殺めた。相手は旗本の次男。帳付けなしの果し合いだった。罪に問われることは必至。直後に江戸を出奔した。駿州まで辿り着いた今、追っ手に見つかる不安はなくなったと思う。

 街道沿いの宿はどこも賑わっている。旅籠の呼び込みの声が聞こえたが、そのまま通り過ぎて宿場外れの古めかしい建屋に向かった。木賃宿は入口の木戸が小さく、上り口の間口も狭い。まだ早い時間の到着のためか、誰も人が出てこない。薄暗い土間に立って肩の荷物を下ろした。

「あ、お客さんだらー」

 背後から誰かの声が聞こえた。下男のような男が「いらっしゃいまし」と会釈して土間を横切った。間もなく奥から宿の女中が出て来て、「いらっしゃいませ」と言って自分の刀と荷物を受け取った。四畳一間の部屋に通され、壁の傍にある古い刀置きの傍に持って来た荷物を置いた。女中が火鉢に炭を置きにやってきて、台所と厠、建屋の裏の先にある共同の湯屋の場所を案内してくれた。

箱根の峠を過ぎて、三島に着いた頃からこうした木賃宿に泊まるようになった。道中で出逢った商人の男から、米を一升持って歩けば旅籠より路銀が掛からずに旅が出来ると教わった。親切な男で、三島宿で米問屋を紹介してくれて安価で米を買うことが出来た。宿には自由に使える竃があって、自分の持ち寄った米を炊いて好きに食事が出来た。駿府は山葵がよく取れるらしく、木の上蓋のついた壺の中に麹と一緒に葉っぱが漬け込まれてあるものが置いてあった。これを炊きたての飯に載せて食べると美味い。

 腹が膨らんだところで、宿の裏にある共同の湯屋に向かった。熱い湯に浸かって旅の疲れを癒した。足を延ばして湯に入るのは三島の宿以来だ。気持ちが良い。つい長湯をしてしまった。宿の部屋に戻ると、廊下は他の客が行きかい騒がしい。夜になると次々に客が増えて、満室になったようだった。翌朝早く起きて府中を出た。握り飯と茶をいれた竹水筒を持って出たが、昼前には雲行きが怪しくなってきた。鞠子には直ぐに着いた。茶屋で案内された宿は小さな旅籠だった。降り始めた雨はザーザーと音をたてて、宿に着く頃には大雨になった。濡れた着物を脱いで、直ぐに湯に浸かった。外は暗く雨音が止む様子はない。この雨では峠超えは無理だと思った。江戸を発ってから足止めになることなく西に向かってきたが、ここでは丸一日滞留することになるだろう。

 旅籠の飯は美味かった。大きな御櫃に麦飯がたっぷりと入ったものを出され、とろろ汁がついた。塗りの茶碗に何か黒いものが煮たものが入っていて、口にいれるとほくほくとして甘い。給仕をする女中が、

「零余子だらー。うまいべ」

 と言って笑顔を見せた。鞠子では自然薯がよく採れるらしい。山深い土地。宿は少なく、数軒の旅籠しかない。他に客もいる様子がなく閑散としていた。ここまで順調に進んだが、宇津野谷の峠は難所で、この雨だと道も更に悪くなる。宿に旅草鞋を用意してもらうように頼んだ。雨が上がった翌朝、宿の者に峠を越えて岡部まで行くというと。

「ひげでいもぐには、お気をつけくだせえ」

 と注意された。髭題目。峠の中腹にある大きな石碑で、その辺りには山賊が潜むと教えられた。旅の商人が襲われ金品を奪われるという。残忍な仕打ちで逆らうと刀で斬られ崖に突き落とされる。怯えた表情で話す男は代官に訴えても役人が取り締まることもないと溜息をついた。府中宿の賑わいと一変して閑散とした宿場の様子に、道行が危険で人が寄り付かないことを思った。だが、峠を迂回する路は浜に出て舟で尾張に向かうしかなく船賃は嵩む。仕方ないがこのまま進むしかないと思った。

****

無構えの男

 翌朝雨間の内に宿を発った。山道は思った程泥濘もなく楽に進むことが出来た。足元はごろごろとした石が多い。急ぐ旅ではないが旅籠に泊る余裕はなく、できれば次の宿場でまた木賃宿を探して雨天をやり過ごすつもりだった。

 山道をひたすら登る。気温は低く、時折風が吹いて頭上の木の枝から大きな水粒が落ちて来る。それでも、早足で歩いていると身体は温まり、背中や首筋が汗ばむくらいだった。半刻程過ぎたところで道は下りになった。泥濘を避けながら、木の根もとの上を歩く。ただ何も考えず、風の音と木々がきしむ音だけが耳に入っていた。

 突然、林の中から何かを叩くような音がした。木こりが大木に斧をぶつけるような。ざわざわと木々がぶつかり合う。その途端黒い影が目の前にあらわれた。大きな薙刀を持った男が立ちはだかるように目の前に立っている。山袴に長羽織。首には手拭を巻いて、腰には大太刀と大きな瓢箪徳利が真っ赤な紐でぶら下がっていた。ざんばらな髪の間から覗く眼光が鋭い。大きな男だ。六尺はあるだろう。男は通せんぼをするように窪地の向こうに仁王立ちになった。

 髭題目の山賊か。

 そう思った瞬間、相手は薙刀を降り回すようにして刃先を向けて来た。空を斬る音。右側の木の影に避けた。踵は柔らかい草地についた。

「ここを通りたければ、持っているものを置いていけ」

 男はそう言って、顎で指図するような仕草を見せた。身を隠した大木の影から、相手の立ち位置を確かめた。窪地の周りにはところどころ泥濘と枯葉が積もった盛り上がりが見えた。男の背後の地面はごろ石が続き一段下がっている。自分は鯉口を切った。抜刀しながら相手の切っ先を跳ね飛ばすように、下から振り上げた。右手に見える枯葉の上に踏み込む。地面があれば、二振り目で突ける。一か八か。相手の振り回す薙刀を剣の鍔の近くで受けた。手に響いてきた衝撃は凄まじく、右足で踏ん張った地面に身がのめり込むような感覚があった。

 相手は、撥ね退けた瞬間に窪地の後ろに足をついてにじり下がった。股を大きく割って、右足の内側を見せるように前に出して相手は尻を背後に引くように低く構えた。じりじりと薙刀を引くように自分の軸足に寄せている。無構え。念流か。そう思った。馬庭念流道場の長物遣いは、いつも相手の切っ先を自分に引き込むように構える。間合いを自分に寄せて相手の一手を受ける瞬間に反撃する。出稽古で多摩に滞在中、念流遣いと決闘をしたことがある。相手の踏ん張りを崩すには、連続で撃たなければならぬ。

 次の一手。

 考える間は無かった。「ヤットオーー」という雄叫びと共に、大きく振り上げた相手の刃が自分に向かって来た。上段から咄嗟に刀を抱くようにして地面を蹴った。相手の振り下げた刃を避けて、身を低くしたまま窪地を飛び超えた。相手の懐の中に入るようにして、そのまま着地した。その勢いのまま両の手に力を込めて思い切り峰で相手の胴を撃った。

 残心のまま、すぐに振り返るように身を翻して上段で構える。

 呻き声を上げた男は振り返りざまに態勢が崩れて窪地に片膝をついた。今だ。真剣に持ち直し、地面を蹴って相手の喉ぼとけを狙って突きを入れた。

 ぐぉお、という声を上げて男は目を見開いた。自分の切っ先は男の人迎にのめり込んでいる。体重をかけて更に押し込んだ。男はがっくりと両膝を地面について薙刀から手を離した。震える手でゆっくりと首に刺さった刃を握っている。抜き取るなら抜いてみろ。自分は相手が白目を剥いて息の根が止まるまで、刀を押し込み続けた。相手の動きが止まって刀を抜いた時、血が噴き出して地面に散らばった。

 地面に突っ伏すように倒れた男は首をこちらに向けたまま絶命していた。自分は肩で息をしながら刀を二度振るって血を払った。強く風が吹き大きな雨粒が落ちて来た。懐から手拭を出して刀を拭ってから鞘に納めた。その時、どさっという音がした。振り返ると背後に誰かが立っていた。小柄な男。紙の雨合羽を被り、箱包みを背負っている様子から商人に見えた。足元には風呂敷包みと杖が落ちていた。男はわなわなと震えている。

「ひ、ひ、人殺しー」

 絞り出すようにそう言って、仰け反るように尻もちをついた。男は、後ずさるように藪のなかに後ろ手をついて逃げて行く

「この者は追い剥ぎだ。鞠子に行って。そう宿の者に伝えよ」

 自分がそう伝えても、男は「どうか、命だけは。殺さないでくれ」と言って、懐から銭入れを出して自分に差し出した。

「髭題目の山賊を成敗した」

 そう説明しても、男は「お願いします。どうか、どうか」と地面に突っ伏して、一向に自分の云っていることを解していないようだった。恐怖で腰が立たなくなっている男は、「殺さないでください」とむせび泣いている。助け起こそうにも、近づくと草むらに後ずさる。伸ばした己の手には確かに血がついていた。自分の着物に返り血が付いていないかを確かめた。たとえ追い剥ぎでも斬られて絶命したとあれば近隣の役人が取り調べにくるだろう。身元検めは困る。商人の男を置いて、その場を足早に去った。山道を下って次の宿場へ。いや、その次の宿場まで急ごう。

 誰も通らぬ山道の泥濘の中を再び登り続けた。途中、雨が降り始めたが鬱蒼とした木々の下をひたすら歩を進めた。水場を見つけて、手や腕についた血を落とした。着物の裾についた血のりも洗いながした。冷たい水に手が凍りつきそうだ。雨音がザーザーと響く中、さっきの男の「人殺し」と叫んだ声が何度も頭の中をよぎった。

 無構えの男をやらねば、己がやられるところだった。腰に巻いた金子を奪われたら元も子もない。あの場をやり過ごせていても、次にあの商人が狙われていただろう。長物で人を脅し金品を奪う悪人を成敗してやった。人殺し。上等だ。峠の坂を下りながら、腹の底から怒りの感情が沸々としてきた。山道に立ちはだかった男の顔。出で立ちから百姓か猟師か。馬庭念流の構え。あの者の足の踏ん張りは強かった。自分が飛び出した時、足の踏み場を逃していたら相手の刃に貫かれていただろう。

 俺は勝った。奴との勝負に。

 打刀を抜いた瞬間。己の掌に響いた感覚を思い出す。共鳴するような。力が一心に集まる。柄も握り易くてよい刀だ。相手を撃てた。思うように身体が動いた。人迎を狙った。殺すために。

 やらねば。やられる。

 それだけだ。

 己で己を納得させるように呟いた。雨粒が顔を濡らしている。腹の中の煮えくりかえる想いと同時にどこか虚しさも感じる。自分はそれを見まいとした。剣を振るっても報われぬ。追い剥ぎを成敗しても「人殺し」と誹られる。

剣を振るって人を斬って咎められるなら、

 俺は何の為に刀を抜く必要がある。

 勝つためか。生きるためか。悪い者は成敗する。道理に逆らうか。どちらでもよい。刀に手を掛けた時、俺は一か八かに賭けた。飛び上がって降り立つ地面が窪地より低ければ、俺に勝ち目はなかった。俺は地面を蹴って次の手を撃てた。刀は手になじみ、振り易かった。人迎を違えずに打てた。

「この型、決まったら一撃で殺れるね」

 試衛場での鍛錬の日々が心に巡る。総司は上背から引き肱で正確に相手の急所を狙える。俺の突きは精々相手の水月だ。だが相手の振りかぶりと己の利き足の踏み込みで威力は上がる。総司との型の浚いはそればかりを集中してやっていた。俺と総司のやり方は間違っていない。道場の稽古も真剣での勝負もおなじこと。勝てば面目が立ち、負ければ死ぬ。

 腰に差した刀は何のためにある。相手を真剣で斬れば死ぬ。自分も斬られれば死ぬ。ただそれだけだ。俺はいつでも死ぬ覚悟は出来ている。

 死ぬ覚悟。

 恐れてなどおらぬ。俺は俺の道理を通す。それだけだ。それを全うできないのならそれこそ犬死だ。

 目の前の山道が開けて、平らかな道になってきた。雨も上がり、まだ十分に外は明るい。山の麓から直ぐに見えた宿場を過ぎ、そのまま更に街道を進んだ。往来の者に尋ねると、次の宿場は平坦な道行であることが判った。

「お寺さんのごちょにょらえをこえるだら、すったらすぐだ」

 寺を超えればすぐに次の宿場への道に出る。ごちょにょらえは「五知如来」という大きな石像が五体並んでいる寺のことだった。香の匂いが漂っている。老婆が如来像に線香をたむけて手を併せていた。自分が傍を通り過ぎると、愛想のよい笑顔で深く会釈した。自分も会釈を仕返し、「御免」といって通り過ぎようとした。

「こん如来さまは、ご利益がある」

「昔、お姫様が口がきけにゃーっけのが、如来さまに御祈りしたら口がきけるようになってね」

「ありがたい如来さまだら」

 老婆は自分にも線香の束を分けて持たせてくれた。祈願しろということか。促されるままに手を併せた。目を瞑ると、山賊の死んだ顔を思い出した。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 老婆の声が聞こえて来る。南無阿弥陀仏。自分も一緒に心の中で唱えた。無構えの男が成仏するよう祈った。峠の道行が安寧になることも。己の道理が正しいものであるように願った。手を併せ終えた自分に、老婆は笑顔で会釈して境内から出て行った。腹を立てていた事は不思議と心の中から立ち消えて行った。ただ、胸の内で考えた己の道理のことは、ぐるぐると堂々巡りのようにずっと頭から離れないままだった。

尾張の国 吉田宿 

 掛川宿を過ぎてから峠もなく吉田まで難なく進んだ。江戸から京までの道のりも半分を過ぎて、ようやく人心地が着いた気がした。

 舞坂や新井では海岸の風景を思う存分眺めて歩き、胸の内の憂いや鬱憤は少し晴れた。大井川の向こうは尾張の国。道行く人の多さに驚く。吉田宿に着いたのは陽も傾きかけた頃。大きな宿場町は往来も荷馬車や人出で真っ直ぐ進む事が出来ない。昼過ぎに買った米袋が思ったより重く足取りが滞る。裏街道に出て宿を見つけようと庇の影を急いだ。

「兄さん、にいさん」

 不意に建屋の格子の中から声が聞こえた。細い女の腕が格子の間から伸びてきた。袖を引こうとする小さな手は白粉が塗ってあり、格子から鹿子の袖が垂れている。格子の向こうは暗くて、ちらりと白い顔が見えた気がした。

「寄っといでよ」

 宿の飯盛女の客引き。心なしか白粉の匂いがした。女の手を払うように腰の刀に手をかけて足早に過ぎた。一つ建屋を通り、次の建屋の前でも二階家から呼び声が聞こえた。

「兄さん、だんな」

「寄っといでよ」

 朱や紅色の鹿子袖。中には二階家の欄干から身を乗り出して、鹿子帯を垂らして持たせようとする者もいる。まだ日暮れでもない内に……。そんな風に思った。岡場所独特の風情。どこか江戸を思わせる。ところ変われば……変わるものだな。

 大通りを離れ、裏道を街道外れに向かって歩いた。古めかしい木賃宿。寂れた場所であれば尚よい。「松の間」と札のついた部屋に入ってようやく腰を落ち着けた。この宿では米を二合渡せば宿で炊いて出してくれるということだった。余れば握り飯にするつもりで米を三合渡した。飯炊きの手間が省けた。特にやることもない。手持無沙汰にしていると、湯の準備が出来たと声がかかった。案内された建屋の裏には大きな五右衛門風呂が設えてあった。小さな用水路の脇に簀の子が敷いてあり、そこで着物を脱いで台にあがって湯船の中に入った。熱めの良い湯だ。

 それにしても風呂釜が大きくて深い。沈めた足板に真っ直ぐに立ってようやく肩から上が水面に出る。

 背の低いものは足が底に届かぬな。

 湯船の縁に凭れ掛かるようにして、そんなことをぼんやりと考えていた。ふと目の前に女の結髪が見えた。風呂釜の向こう側に立って居る女の後頭部。宿の女中かと思った。振り返った女は見た事のない女だった。湯船の中を覗きみると、女は小さく会釈をした。

「よいしょっと」

 女はそう言って、縁の向こうにしゃがんで見えなくなった。こつん、と何か木と木がぶつかる音がした。女は再び縁に手をかけて立ち上がった。手拭で前を隠している。女は裸だった。呆気にとられている自分の目の前で、女はもう片方の手で板を湯に浮かべると身体を捻るようにして縁を跨いで板の上に足を置いて沈めた。

「あったかい」

 女は嬉しそうに笑っている。湯煙の向こうにみえるのは、確かに女だ。白い肌に華奢な肩、湯の表面から見え隠れしているのは白い女の乳房だ。

「ええ湯だがね」

 自分は頷くしかなかった。女は湯を掬って肩や首元にかけている。

「そっちは深いでしょう。足がとどけーへん」

 女は湯をかき混ぜるように足を動かしているのか、湯の表面が揺れている。水面の先には女の両の乳房がゆっくりと水に浮く様に波打っているのが見えた。自分は生唾を呑み込んだ。

 いかん。いかん。

 あわてて後ろを向いた瞬間、足板が滑って踵から外れた。しまったと思った時には遅かった。湯の中に身が沈んだ。底についた足は焼けそうだった。湯船の壁を掴んでも滑る。

 えいっ。

 死ぬ気で底を蹴った。川に沈んだ時を思い出した。暴れても仕方がない。熱い。熱くて焼けそうだ。五右衛門の如く釜茹でになってなるものか。

「だんな、これに掴まって」

 女の声が聞こえる。背中を何かで突かれた。自分は振り返って、湯の中で何かに掴まった。木の長板。それを持ってようやく水面に顔が出た。目の前に女が立って風呂の縁から伸ばした板を支えている。たおやかな腰つき。揺れる女の乳房が目の前にあった。また湯に沈みそうになった。女は自分の肩に手をかけて引っ張り上げてくれた。

「ほら、こっち。ここは浅いから足をのせて」

 女に手を引かれて足台に乗ることが出来た。

「すまぬ」

 女はくすくすと笑っている。

「ぬるぬるしとるもので、滑りやすいで」

 ようやく態勢を整えることが出来た。女は水面に浮いた足板を器用に板で手繰りよせると、自分に渡して笑っている。

「すまぬ。礼を言う」

「溺れてまったと思ったで」

 女はまだ笑っている。ばつが悪い。風呂で身を沈めた上、おなごに助けられるなど。女は「さ、あたしは上がります」と言って「御先に」と身を翻すように湯船から出て行った。縁にかけた足と太腿が白く、ただ白く眼の前を過ぎていった。自分は完全にのぼせてしまい風呂から上がると頭がくらくらした。

*****

 部屋の畳の上で横になっていると、飯が炊けたと声がかかった。台所のそばの座敷に据えられた膳。炊き立ての白米に赤みその豆腐汁。美味い。香の物、大根の煮物と小さな巻貝の煮つけが付いている。甘辛くて美味い。酒が飲みたい。宿で酒を頼もうか。少し贅沢をしてみたい。路銀はまだ十分に残っている。そう思って、膳を下げに来た女中に酒を頼んだ。二合百文。悪くはない。飲みたりなければ、通りに出てもよい。すっかり気が大きくなって、巻貝の煮つけを肴に飲み始めた。

「そんなら、姉さん」

 どこかで聞いた声がした。勝手口から声を掛けたのは、風呂場の女だった。女は自分に気付くと、愛想よく会釈した。自分は姿勢を正して頭を下げて挨拶した。宿の女主人に貰い湯の礼を言うと、女はもう一つの勝手口から出て行った。戸をくぐる時に捻った腰が、夕暮れの光の中でたおやかな曲線を描いた。自分は、女が居なくなった後もただぼんやりと戸口を見ていた。

「お客さん、お代わりは」

 女将に勧められたが、久しぶりの酒で十分に酔いが回っていたので断った。部屋に戻って身が温かい内に布団の中に入った。翌朝は暗い内に発って出来れば岡崎まで行きたい。伊勢国桑名までは途中海路があると、道すがら傳馬の男から聞いた。海が荒れると舟が出ず迂回して陸路を行くと数日はかかる。京まで急ぐなら、宮宿から「七里の渡し」をと。

 目を瞑って眠ろうとした。だが、ふと目の前を白い肌が横切る。白い女の手。「兄さん」と呼ぶ飯盛女たちの声。鹿子の袖、帯かざり。朱色、紅、山吹。女の笑い声。

 白い肌、湯に揺れる乳房。

 湯船でみた女の腰つきや太腿を思い出す。濡れた肌。酔った頭の中で断像を追い求める。寝返って身体を横にした。左手はすぐに己の股間に伸びていった。布団から右手を伸ばして枕元に置いてあった手拭をとった。女の腰に手を伸ばして情をぶつける。耳には女の艶めかしい声が聞こえて来る。物凄く興奮する。やめられん。

 手拭を用意しておいてよかった。布団を汚さずに済んだ。己を褌に仕舞って一息ついた。

「ねえ、その子、気に入ってんでしょ。お楽しみに」

 総司が笑う。吉原の夜。むらさき。どこか遠くを見ている黒目勝ちの大きな眼。小さな肩……。江戸で、そんなことがあった。昨年の秋のことなのに、もう遠い昔の気がする。あの夜、不意に女をあてがわれた。何枚も重なった襦袢の向こうに白い肌が見えた。手を伸ばしてまさぐった尻の柔らかさ。また思い出してしまう。

「好きにしなよ。気に入ったんでしょ」

 また総司の声がする。からかうな。目が冴えてきた。でも再び股に伸ばした左手は止められぬ。

 また果てた。今度こそ眠ろう。全てを仕舞って寝返りを打って目を瞑った。だが江戸に居た頃のことばかりが頭に浮かぶ。総司は日野の初稽古に独りで行ったのやもしれぬ。向こうで引き留められたとしても、とっくに江戸には戻っている筈。試衛場の皆はきっと稽古と上洛の準備で忙しくしておるだろう。

「年明けには上洛するよ。将軍様の護衛にね」

 総司の嬉しそうな顔を思い出す。近藤先生や新八たち。多摩から馳せ参じる土方さん、井上さん。皆の充足感を思った。心の底から羨ましい。

 俺は一緒に行けぬ身となった。

 同じ上洛なのに。

 己は逐電浪人、行方をくらまし、このまま根無し草になるのが関の山。

 もうどこにも。己の居場所はない。

 虚しさとやるせなさ。心に広がる暗闇。まるで真っ黒な渕に全身が沈んでいくような。たった独り。考えまいとしても、どこにも寄る辺のない身上は、暗然たる中に永遠に取り残されたような気がした。

****

 眠ったのか起きていたのか自分でも判らない。鳩尾に暗い大きな穴が開いたような気分で布団から出た。外はまだ暗い。厠に行って顔を洗った。しーんと冷える空気の中で空を見上げた。明けの明星か。東の空にひと際輝く星を見てそう思った。夜が明ける前に出立しよう。部屋に戻って着替えを済ませると、荷物を持って勝手口に出た。台所の台の上に竹皮で握り飯が包んだものが置いてあった。「松の間」と書かれた紙が添えてある。女中が夜のうちに用意しておいてくれたものだろう。宿賃は先払いで済ませている。握り飯の包みを内飼いにしまって、外に出た。白んで来た空に背を向けるように、まだ薄暗い街道を西に向かった。

 土を踏みしめる音を自分で聞きながら、黙々と歩き続けた。時折、行商のような出で立ちの者とすれ違う。それ以外は誰にも会うことはなかった。一里塚を過ぎたところで、視界が開けた。姫街道との追分を経て、宮宿へ向かった。ただひたすら歩く。自分の吐く息と吸う息。それだけに集中していると心が無になれた。

 海路はおだやかな凪の中を、ゆっくりと進んだ。舟には商人も多く乗っていた。刀を腰に差しているだけで、腰かけのある場所を譲られる。海風は冷たいが、海面の眩しい光と広がる海原を眺めているだけで気分が晴れた。舟が着く先は桑名。尾張は人出でにぎわう土地だと思った。舟には伊勢詣客が多く、一宮の大鳥居が見えると歓声をあげて手を合わしている。船着き場の喧噪を避けて、街道をひたすら進み庄野で宿をとった。宿の主人とは片言だけ言葉を交わし、部屋で横になった。旅人の路銀を狙う者は多い。無銭で施しを受けて伊勢参りをする集団にも出会った。腰に巻いた金子だけを守るように、数刻身体を休めて再び街道を急いだ。

******

真五郎との出会い

 桑名を旅立ってから数日で近江へ出た。大津から山科にさしかかった時、山道で立ち往生している男の姿が見えた。大きな長木箱を背負い、白髪交じりの髷、藍の羽織に山袴。商人風の男の前には刀を抜いた浪人が立っていた。

「金目のもんを出せ」

 片手太刀の刃を向けて叫ぶ男の前で、老人は後ずさりながら首をぶるぶると横に振っている。自分は震える男の前に出て鯉口をきった。抜刀しながら、追い剥ぎの片手太刀を払った。男は「うおお」とおかしな声をあげ、地面に落ちた刀を拾おうとしたが、こちらが刀を返して喉元に突きつけると、仰け反るように動かなくなった。

「命が惜しくば、このまま立ち去れ」

 総髪の男は、目を見開いたまま小さく頷くと、地面を這うようにして山道を駆け下りていった。無様な男だ。地面に落とした刀を拾うこともせず逃げるか。刀を鞘に納めてから、男の刀を手に取ってみた。長めの打刀。刀身は太く、刃は深く切れ込んでいる。悪くはない。そう思った。

「ありがとうございます。お武家様」

 背後から声を掛けられて振り返ると、老人が頭を深く下げて命を救われたと礼を言っていた。

「怪我はないか」

「へえ。もう斬られるもんやと覚悟してました」

 男は懐から手拭をだして、涙と首もとの冷や汗を必死に拭っている。大津から伏見街道に向かう途中だという男は、用事で山科に来た帰りだという。自分は上京に向かうと応えた。

「お手の刀。鞘がおまへんと持ち運びに難儀しますやろ」

 男は追い剥ぎが置いていった刀を見て、「お待ちを」と言って背中の荷物を解いて、地面に木箱を置いた。長木箱の紐を解いて蓋をあけると、そこには刀が一振り、綿と一緒に詰められてあった。男は持っていた風呂敷から真っ白な上絹を取り出すと、それを地面に広げて「ここに置いてください」と頼んでくる。自分は言われた通りした。

 男は「ちょっと拝見します」といって、打刀を粒さに眺めている。「ええもんですな。拵えも悪うない」と言って、丁寧に布で包むと、長箱の中に刀をしまった。

「お武家様、この刀は私が研ぎをかけて鞘をつけてから貴方さまにお納めします」

「わたしは伏見で刀の研ぎを生業にしているもんです」

「それは、手前のものではない」

「いいえ、あの盗人が置いていったものです」

「ほんもんの武士なら、おいそれと刀を置いて逃げるようなことは絶対おまへん」

 それもそうだ。心中で自分もそう思った。刀は武士の魂。腰の差料がなければ、道に裸で立っているようなものだ。男は丁寧に刀の入った木箱を風呂敷に包んで背負うと、にっこりと笑って頭を下げた。

「刀はお預かりしました。わたしは光逸真五郎と申します」

「斎藤一と申す」

 宿帳で使い慣れた名前を名乗った。それから真五郎と共だって山道を歩いた。人と言葉を交わすのは久しぶりな気がした。江戸から東海道を通って来たと云うと、「それはえらいことですな」と感心された。真五郎は、伊勢より東は一度も行ったことがないという。街道の分かれ道で、真五郎に伏見まで一緒に来て貰えないかと言われた。

「もう、日暮れも近い。また追い剥ぎに遭うやもしれん」

「こんなけ刀を背負ってても、わたしはひとつも抜けしまへん」

「斎藤様、刀を研ぐ間、どうかうちに泊まってもらえたら」

「なにも特別なことは出来しまへん、そやけど、宿代りになりますやろ」

 急ぐ旅ではなく、洛中に着いたら宿を探そうと思っていた自分は真五郎の誘いを受けた。道中の用心棒か。自分は心の中でそう思った。俺などが一緒でもこの男は厭わぬのだな。

 伏見がどこにあるのかもわからぬまま、男について街道を下って行った。真五郎の住まう長屋に着いた時、陽はすっかり暮れていた。真五郎は独り住まいのようだった。長屋の離れに通され、間もなく真五郎が作った雑煮を食べた。焼いた餅が入っていてうまい。

「斎藤様、障りがなければお手持ちの刀を見せて貰えますやろか」

 二杯目の雑煮を食べていると、真五郎が部屋の奥に置いてある打刀を指さして尋ねた。自分は頷いた。真五郎は、手洗いに外にでると、白い布地を持って戻って来た。

「恐れ入ります。触らせてもらいます」

 姿勢を正し畏まって刀を改める真五郎の眼は真剣だった。蝋燭を灯し、その傍で刀身を粒さに吟味している。

「鍔に近いところに小さい刃こぼれ、二か所」

「巾木を取り替えましょか。これは、ええ刀や」

「研がせてもらって、よろしいでっしゃろか」

「拵えも綺麗にして、そうですなあ。研ぎだけでも十日はかかりますなあ」

「頼めるなら、お願い致す」

 真五郎は研ぎ直せば、刃こぼれは直すことは叶うと云って笑った。ありがたい。何度か抜いた刀だが、旅の途中に簡単な手入れしか出来なかった。刀を手放すにしても、刃こぼれをしていては値打ちが下がる。そんなことも考えた。真五郎は布で刀を包もうとした。だが、今一度自分でも刀をしっかりと吟味したいと思った。

「みてよいか」

「へえ」

 恭しい所作で真五郎は両の手で打刀を差し出した。蝋燭の灯をそっと傍に移動させた真五郎は、少し離れた場所で正座をして待っている。自分は刀の柄に手を掛けた。その時、強い震動が起きた。まるで刀が強い力で揺れたような。吸い付くように己が手に力が入り、握りしめた指、手首、腕、そして心の臓、鳩尾から丹田にまで震動が伝わった。まるで刀と己の身が共鳴し合うような。よい拵えの刀は、柄が手に収まり一体感があるが、これはそれとも違っている。一瞬だが、音でも立てたように共鳴した。おかしなことがあるものだ。そう思いながら、ゆっくりと刀を鞘から出した。刀身は曇っていた。雨の日の後に、もっと手入れをしておくべきだった。血をしっかりと拭えておらぬか。後悔ばかりが先立つ。柄の縁にも血の跡が残っていた。人を斬ったから仕方がない。だが、幾ら旅の途中とは言え、もう少しちゃんと手入れをしておけば良かったと思う。

「研ぎを済ませて、巾木と縁、柄のまき直しをすれば、もっとお手になじみますよって」

「頼む」

 真五郎は受け取った刀を丁寧に布に包むと、さっそく研ぎにとりかかると云って部屋を出て行った。自分は用意された布団に横になると、一瞬のうちに眠りに落ちて行った。

 翌朝、まだ暗い内に目覚めた。厠に向かうと、工房の窓から灯りが漏れているのが見えた。顔を洗って着替えを済ませ、工房の扉を開けた。真五郎は板の間に座って作業をしている。そっと近づいてみると、真五郎は白い作務衣姿で、片膝を立ててしゃがみ一心不乱に刀を研いでいる。裸足の足の下に板が渡してあり、その板が手元の砥石の押えとなっている。右手で桶から掬った水を砥石にかけると、刀を水平にそっと石の上に置き、慎重な様子で位置を決めると一気に体重をかけるように滑らす。板を押える右足の指が大きく開いてはゆっくりと戻るように板を浮かせ、それに合わせて擦りつけた刀身が返る。刀研ぎを生まれて初めて見た。真五郎の指先は刀身の表面を確かめるように動く。その真剣な様子に、そっとその場を離れようとした。

「下研ぎです。これで刃こぼれはなくなります」

「ここ、ここに二つ刃こぼれがあったのは取り除きました」

 自分は頷くしかなかった。真五郎は再び手を動かし始め、工房に刀身が砥石の上を滑る音がするだけになった。火鉢もなにもない板の間で、おそらく真五郎は一晩中作業をしていたのだろう。工房には様々な道具が置いてあった。どれもよく使い込まれて、埃ひとつかかっていない。壁の一番奥まったところに立派な檜造りの神棚があった。そこには太刀が置いてあった。天に向かって反り返るような姿は、大層凝った拵えで鞘の真ん中に結ばれた下緒は美しいものだった。総漆塗。暗い中に浮かび上がるような艶と輝きに驚く。

 二礼し柏手を打って、手を併せた。江戸を出て無事にここまで辿り着いた。今日はいよいよ市中に向かう。父上に訪ねるように言われた吉田殿の所へ。己の身の振り方を決められるように。

 外は明るくなり始めた。工房から裏庭に出た。町屋の裏は谷戸になり苔むした地面と敷石が続く。誘われるように庭の奥に行くと、小さな祠が見えた。両側に楠の大木が覆うように生えている。祠の前の石畳に上がって、手を併せた。心に願うことはさっきと同じ。

 己の進む道を決めることができますように。

 石畳から降りて離れに向かった。工房から続く渡り廊下で囲まれた一帯は小さな社のようだった。苔の匂いと瑞々しい空気。長屋の前の通りとはまるで違う静寂な空間。心が落ち着く。草履を脱いで渡り廊下に上がり、奥の間で身支度をした。間もなく、真五郎が朝餉を用意してくれ、二人で向かい合うように座って食べた。

「刀は、今日から数えて十日の後に仕上がります」

自分は頷いて、食事を続けた。これから向かう先は上京。直ぐに発てば数刻で吉田殿の家に辿り着くだろう。

「大層世話になった」

「いいえ、なにもお構いできへんままで」

 食事を終えると、荷物を持って工房に向かった。真五郎は作業場から立ち上がって。数振りの刀を広げた布の上に並べた。

「刀が仕上がるまで、こちらをお使いください」

「どれも、ええ刀です」

 真ん中の刀の佇まいが気に入り、手に取ってみた。鞘から抜くと、細身で軽く扱いやすい。反りが殆どなく、降り降ろすより突きに向くと心中で思った。他の二振りも良い品だったが、最初の一振りを借りることにした。

「では、これを借り受ける。礼を言う」

「へえ、では十日後に、お待ちしています」                                     .

 通りに面した間口で真五郎に見送られて市中に向かった。通りはどこも商いで賑やかだ。江戸を発ってから大きな宿場を何度も通ったが、伏見はどこよりも華やかに感じた。多くの人出に祭りでもあるのかと思っていると、伏見稲荷に出た。大きな参道の前をそのまま横切るように北上する。街道は人の行き交いが多い。荷車が勢いよく走り抜ける。東福寺の傍の茶屋で、「ようこそ、おいでやす」と声を掛けられた。茶屋には、「洛中へおいでやす」と書かれたのぼりが立てかけてあった。いよいよ市中に入ったと思いながら、ずっと川沿いの道を歩き続けた。

つづく