小説 - 庇の影

宮の脇橋

庇の影その3

 上京の丸太町通り宮の脇橋を渡った所に山口一の目的地である道場があった。

 石橋からすぐ左側に生垣と門が見え、その向こうに道場らしい建屋が見えた。玄関は開け放たれている。表札に吉田の名前を確認してから、「御免」と声を掛けた。

 道場らしい建屋は静かで誰も居ないようだった。もう一度声を掛けると、中から人が出てきた。白髪交じりの総髪を結い上げ、灰色の作務衣を着た姿。自分は一礼してから本名を名乗った。

「よう来られた」

「さ、どうぞ上がられよ」

 男は桶にぬるい湯をはったものを持って来た。自分は礼を言って、荷物を下ろし上り口に腰かけて、草鞋を解いた。土埃で汚れた足袋を脱いで湯で手足を流した。手拭で足を拭ってから再び足袋を履き直した。立ち上がると、右の廊下から男に呼ばれて座敷に上がった。

 火鉢の傍に座るように言われて薄い座布を勧められた。自分は断って畳の上に直に正座した。正面に座った男は、「吉田房之介でござる」と頭を下げた。自分も頭を下げて挨拶した。

「突然、江戸よりお訪ねしました。わたしの父、山口右介よりこちらを訪ねるようにと」

「承知しておる。其方の父御から文が届いた。お待ちしておった」

 京にいつ着いたのかと訊かれ、前の日だと答えた。自分は懐から書状を取り出して、吉田さんに渡した。吉田さんは目の前で文を広げて一通り目を通した後に自分を見て、「腹は空いてござらぬか」と訊ねた。自分は「はい」と返事をした。吉田さんは部屋を出て行った。閉じられた障子の向こうから、ぼんやりと光が入っている。部屋は四畳半。小さな床の間と火鉢が置いてあるだけの座敷。自分はじっと正座したまま待った。障子の向こうから勝手口に来るようにと声がかかり、自分は吉田さんの後をついて行った。上り口の横にある土間に降り立った吉田さんは、竈の上の鍋を開けて木の椀に味噌汁をよそっている。足元には膳がすえてあった。麦飯に香の物、がんもどきが丸い椀の中に見えた。なんとも言えぬいい匂いが漂っている。腹が思い切り鳴る音がした。促されるまま膳を持って、板の間の上の座布の前に置いて食事をした。飯を頬張るように食べていると、小さな御櫃を差し出された。

「今朝炊いた。好きなだけ食べなさい」

 吉田さんはそう言って立ち上がり、味噌汁のお代わりをよそって自分の膳の上に置いてくれた。ありがたい。自分は遠慮をせずに飯をお代わりして全て平らげた。湯飲みに白湯を注がれて、一気に飲み干して食事を終えた

「部屋へ案内いたそう。荷物を持ってきなさい」

 云われるままに荷物を抱えて、廊下の奥にある部屋に行った。四畳半の部屋。畳が大きい分、江戸の自分の部屋より広く感じた。奥に小さな板の間があった。そこへ壁に立てかけて刀を置いた。小さな古めかしい火鉢もある。自分が荷物を解いていると炭を運んで来てくれた。

「ありがとうございます」

「布団はあとで運ぶ。厠と手水場は教えた通り。勝手口から道場の玄関にまわることもできる」

 自分は頷いて立ち上がった。厠に行ってから勝手口を通って道場に向かった。道場の掛け軸の前に立つ吉田さんの姿が見えた。一礼してから道場の中に入った。壁の木刀を手にとった吉田さんは、「今日、門人は来ない。自由にここを使ってよい」と言って自分に木刀を渡した。

 短い細身の木刀。軽い。そう思った。吉田さんは、「手合わせを願おう」と云うと、作務衣の袖の紐を器用に引いて襷がけのように身仕舞を整えた。それから木刀を持って位置についた。自分も襷掛けし木刀を持って位置についた。青眼の構え。吉田さんも静かに構えている。自分から打って出た。木刀と木刀がぶつかる音が響く。相手はいなすように木刀の先で自分の突きを払うと、そのまま左側ににじり下がった。自分は前に出た。利き足で踏み込んだ瞬間、面をとられた。

 額の上を木刀の先が触れる寸前で動きを止められた。

 一体なにが起きた。いつの間にこんなに間合いを詰められた。相手に向けていたつもりの切先は、相手の左肩の横を外れ全く当たっていない。自分は木刀を戻し、元の位置についた。再び互いに青眼で構える。今度は吉田さんから打ってきた。早い。まっすぐに上段から何度も打たれる。自分は払っては逃げ、払っては逃げを繰り返し後ろに下がった。相手に隙がない。壁際まで押された所で、身を低くして相手の脇腹に入った。これしかない。陰の構えから抱くように木刀を相手の胴にぶつけるように前に出た。だが直ぐに掬われ、利き腕の小手をとられた。強い。この人は。

 再び、元の位置に戻って構える。互いに牽制し合う。にじり足で相手は左に、自分は右に移動した。独特の動き。右足が傾くと、左足が素早く動く。まるで右の足を庇うかのようだ。動きの遅い足に重心が移った時が狙い目。そう思った瞬間思い切って前へ出た。木刀が空を斬る。相手の刀が真っ直ぐに降り降ろされ、木刀と木刀が十字のように重なり大きな音を立てた。弾かれる。そう思ったが、相手の右の軸足が下がった瞬間を見逃さなかった。今だ。

 両手に力を入れて、斜めささがきに振り上げた。思わず声が上がる。相手の胴をとった。

 吉田さんは木刀を持ち変えて元の位置に戻り、自分も位置に立って礼をした。思い切り息切れしていた。苦しい。だが吉田さんはひとつも息が乱れた様子はない。ゆっくりと木刀を壁に掛けると、背中を向けたまま袖の紐を元に戻した。そして、午後に門人は来ないから、好きなようにここを使えばよい、と言って道場を後にした。去り際に、右肩が下がって見えた。それは恐らく利き足である右の足を引き摺るように歩行するからだ。一寸、いや半寸。微動だが、右の足が少ししか前にでない時がある。この人は右足が不自由だ。初めて気が付いた。

 道場は再び静かになった。誰も来ないのであれば、木刀を振って独り稽古をするしかないだろう。自分はさっきの手合わせのお浚いをした。予測ができない動き。特に最初の一手。一瞬で面をとられた。真剣ならば眉間を割られている。即死だ。上背もなく、互いの腕の長さもほぼ変わりのない相手。なのに、上段から一本をとられた。悔しくてならない。

 それからずっと木刀を振り続けた。久しぶりの鍛錬で、己の腕の鈍りを感じた。こんな事ならば、旅の間にもっと剣を振るっておけば良かった。足の踏ん張りに関しては、前より力がついた。脇から腕、この部分の動きをなんとかせねばならん。課題だ。稽古を終えて、汗だくになった着物を脱いで汗を拭いた。母屋に戻ると吉田さんは土間で夕餉の仕度をしていた。炊事をご自分でされている。どうも独りきりで暮らされているようだ。竃の釜から米の炊けるいい匂いが漂っている。外はもう薄暗い。時が経つのも忘れてずっと稽古に没頭してしまった。

 蝋燭の灯った勝手口で夕餉を食べた。炊き立ての白米。食べた事のない漬物。酸っぱくて癖がある香り。吉田さんは「古漬けで申し訳ない」と笑っている。自分は美味いと思ったので、その通りを伝えた。青菜の煮たもの。甘い味噌が掛かっている。これも生まれて初めて食べた。吉田さんは気遣うように「好きなだけ食べなさい」と言って御櫃を自分の膳の横に置くと、早々に自分の膳を下げて土間の向こうの流しに置いた。

 自分もすぐに食事を終えて、膳を片付けると流しで洗い物を手伝った。水回りの使い勝手を一通り教えてもらった。水瓶の場所。湯飲みや茶碗の棚、井戸のある所。そして、部屋の行灯に灯をともし、布団を取りにくるように言われて、客間の押し入れから布団を一組持って来た。布団を敷いて灯りを消して直ぐに横になった。こうして客人のように寝泊まりしていることが不思議な心持がした。

 いつもの如く、疲れているのに目が冴える。目を瞑って、道場での手合わせを浚い直した。襖を隔てた隣に道場主の部屋が続いている。もう休んでおられるのか、静かだ。昼過ぎにここに到着してから、特に何も話をしていない。吉田さんは、父上の知り合いであることは確かだろう。江戸の父親が、京に知り合いがいる事を知らなかった。吉田さんの様子から、道場に暫く滞在しても差支えがないように感じた。明日は、炊事や道場の床拭きをしよう。洗濯もせねばならん。直ぐに眠ろうと、寝返りを打って目を瞑った。

******

道場稽古

 白川脇に滞在して六日ばかり過ぎた。その間、通いの門人が来て一緒に稽古をした。一人は、鹿谷通りに住む士分の相羽辰之進。数えで十五。もう一人は同じ通りにある酒問屋「滝川屋」の一人息子の宗吉郎。十二歳。二人とも素振りと型稽古が中心だった。流派は違うが、基本の型は自分が習ったものとほぼ同じ。相羽辰之進と宗吉郎と並んで、一通りの型を覚えて行った。師匠の教え方は厳しい。手を違えると、それがどのように相手に狙われ一手を落とすことになるかという所まで細かく指導された。相羽と宗吉郎は、二人とも剣筋はよく、熱心に朝稽古をして昼に帰っていく。

「月変りに辰之進に初伝を渡す」

「一緒にそなたに目録を授けよう」

 昼餉を食べ終えた時に、吉田さんにそう言われた。突然のことで何も言えないでいる自分に、膳の上に食器を置いた吉田さんは静かに云った。

「そうであった。そなたとは入門の取り交わしもしておらぬのに、わたしの早合点で無理を申した」

「お願いいたします」

 自分は姿勢を正して、床に両手をついて頼んだ。

「月終わりまであと数日ある。其方さえ良ければ、早朝と午後に型と打ち合い稽古をする」

「はい」

「伝書はない、口伝でお教えする」

「はい」

 吉田さんが立ち上がるのと同時に自分も腰を上げて膳を片付けた。今まで「切紙」を授かったことはない。それは試衛館でもそうだ。最初の剣術の師匠から様々なことを教わった。己の剣術は一刀流や無外流の型には嵌まらぬ故、免許などに拘る必要はないと云われた。師匠が内心どう思われていたのかはわからない。流派に拘らずに何でも身に付けておくことが大切。変わり者で通っていた師匠は、己で築いた道場を一代きりで閉めると決めておられた。でもそれは、弟子の自分に道場を継ぐ技量がなかったからだと思う。

 その日の午後から毎日早朝から陽が暮れるまで稽古をつけて貰った。型の伝授は手短で、主に打ち合いをした。「本気で打ってかかれ」とだけ言われる。それは、試衛場での近藤先生の教えとよく似ていた。十本の内、辛うじて一、二本をとれる。己の技量の無さをここまで痛感するのは初めてだった。勝ちたい。ただ勝ちたい一心で向かって行った。

 夕餉を終えて床に就く前に、自分の荷物から金目のものを全て取り出した。江戸を発つ時に持たされた金子はまだ半分残っている。そろそろ研ぎに出した刀を取りに行く必要がある。真五郎に渡す金を除けて、残りを紙に包んで先生に渡した。世話になっている事と切紙を貰う事に対しての謝礼。足りなければ、自分で工面しなければなるまい。朝の内に、翌日に伏見に用事があって出掛けたいと先生に伝えた。伏見まで出るなら、帰りに三条に立ち寄る使いも頼まれた。明日は早朝稽古の後にここを発つ。久しぶりの市中。よく自分の身の振り方を考えよう。そんな事を漠然と思いながら、その日は横になった。

*****

 翌朝早くの稽古は試合形式で打ち合った。木刀に鍔を付けたのは初めてだ。鍔迫り合いの伝授。先生の押しこみは強い。まるで大きな岩がその重さでねじ臥すような。先生から動きの流れを断つなと教えられた。

 流れがそのまま相手を押し込む力となる。

 解ってはいる。だが、相手が鍔で受けて止めてしまえば、押し返されるだけだ。試衛場ではそういう場合、相手の力をいなして躱し、次の一手を打つように教わった。少なくとも型では何度もやっている。躱さずに相手に流れで押し込もうとしてみた。先生はどんどん身を近づけてくる。先生の右肩が下がった。身が傾く。摺り足が止まっている。自分は思い切り押して、相手の刀から木刀を放すように後ろに飛び下がった。次に右から相手の左の胴を狙った。

 一本をとったと思ったが、先生はただ動きを止めていただけだった。自分が正面に戻って構えると、先生は木刀を下ろしたまま、

「なにゆえ陰陽の欠けを狙わぬ」

と問うてきた。自分は何のことだか解らない。

「右側が急所であることは判っておるのであろう」

「ならば、なぜ打たぬ」

「左を打って勝てるからです」

「これが互いに真剣を持っての勝負ならば、どこを打つ」

 自分は応えられなかった。真剣勝負なら、鍔迫り合いの時に先生の右足を利き足で押し込み、そのまま切先で相手の喉元を狙う。先生には間合いをとっても不利だ。

「喉を狙います」

 先生は暫く黙っていた。苦し紛れの答えだと思われている。それが情けなかった。「今日はこれまで」という静かな声が聞こえた。自分は木刀を持ち変えて、一礼した。

 部屋に戻って身支度をしてから玄関に行くと、土間の上り口に沢山の野菜が置かれてあった。近隣に住む者が時折やってきて、こうして野菜や干物などを置いて行く。道場に通う宗次郎は月謝代わりに味醂の入った大瓶を置いて行く。

「先生はお酒をお飲みにならはれへんから、『みりん』を持っていけってお父はんに言われてる」

 宗次郎はそう言っていた。門人はたった二人。月謝もとらず、そこに自分のような者が厄介になっている。江戸の家は質素な暮らしだった。それでも試衛場から出稽古に出れば実入りはあった。道場の門をくぐって通りに出た。丸太町通りを西に向かい鴨川まで出て、川沿いを下って行く。東山通をひたすらに南下した。途中祇園を通った。賑やかな大通りに出店が並ぶ。人出は江戸の上野より多いと思った。

 ざわざわとする人混みを目の前にしながら、心ではずっと朝の手合わせのことを考えていた。口伝というより、打ち合いで相手を負かすことを教わっている。切紙を授かったとしても、出稽古に出なければ、先生の身代を食いつぶすことになる。伏見の真五郎にどこか実入りになるあてを頼んでみようか。そんな事を考えた。自分に出来ること。京では何もない気がした。

****

真五郎の工房で

 伏見の真五郎の工房で、借り受けた刀を返し国重を受け取った。一緒に、山城で追剥から分捕った打刀も一振り、立派な鞘を付けたものを貰った。

「礼を云う」

 金十両を渡すと、真五郎は首を振って「受け取れまへん」と突き返す。

「命を救って貰ったお礼に研ぎをさせてもらったんですから」

「へえ、これも。ええ刀です。是非斎藤さまに使うてもらえたら、刀も本望でっしゃろ」

 まるで刀が生きている物かのように話す。真五郎は、作業がひと段落したところだからと言って、離れで昼餉を出してくれた。大きな丼鉢になみなみと入った汁、真っ白な饂飩。揚げを刻んだものに緑の葱がたっぷりとのっている。

「伏見一美味しい饂飩を買うてきたんです」

「斎藤さまが来るおもて、今朝方特別に打ってもろて」

「これ食べたら、力がでます。夕方から本研ぎを控えてまっしゃろ」

 真五郎は研ぎの作業が立て込んでいると話して笑っている。自分は生れて初めて食べる刻み揚げの饂飩を啜り続けていた。透明の汁が旨い。薄いのになんとも言えぬ滋味がある。葱の香りがよい。噛むと味が出る。最後の汁も全部飲み干した。夢中になって食べた。こんなに饂飩がうまいものだとは知らなかった。伏見は饂飩の名所か。丼鉢を膳に置いて、「馳走になった」と礼を云った。

「このように美味いものは初めてだ。伏見の名物か」

「饂飩は伏見では、こことあともう一軒美味しい店がございます」

「ここは水がええよって、造り酒屋もありますなあ」

「斎藤さま、お酒は」

「好きだ」

「ほんなら、こんどご案内しましょ」

 食事の後、真五郎はすぐに工房へ戻った。自分は工房の神棚と裏庭の祠に参ってから、真五郎の研ぎの作業を暫く眺めた。真五郎は十二のときから三十五年研ぎをしていると教えてくれた。修行に十年かかったと聞いた。刀を振るうしか能がない己は、果たして研ぎを生業にすることが出来るかと考えた。刀が好きだ。形、触り心地、用途、その在りよう全て。剣術が好きなのは、刀の使い道を極められるからだ。そのために鍛錬している。

 ふとそこまで考えたところで、これが己の道理なのだと気づいた。刀の使い道。これを定めること。心を決めねば。

 工房には、砥石の上を刀が動く音だけが響く。息を潜めるように渾身の力を込めて刃の表面を研ぐ。真五郎の全身全霊を傾ける様子に、そっと後ろに下がり工房から離れた。上り口で刀を包んだものを持って、真五郎に挨拶をした。真五郎は一瞬手を止めたが、自分は「また来る」とだけ伝えて玄関を出た。

****

面を刺す

 道場に戻ったのは昼八つ過ぎ。先生は、部屋で何か書き物をされていた。

「ただいま戻りました」

 三条に立ち寄って買った墨二丁の包みと釣り銭を先生に渡した。先生は墨の包みだけを受け取り、「駄賃だ」と言って再び文机に向かわれた。部屋を下がる時、「夕餉は勝手口に用意してある」と言われた。先生はずっと部屋に籠もったままだった。日暮れまで道場で独り稽古をしてから夕餉を食べた。お勝手の片付けをして、自室に戻り横になった。

 襖の隙間から灯が漏れていたが、暫くするとそれも消えた。障子の向こうは暗い。目を瞑って伏見でのことを思い浮かべた。真五郎の研ぎで、国重は冴え渡る仕上がり。柄のまき直しには上等な鞣し皮が使ってあった。掌に吸い付くような感触。刀身から何かを語り掛けてくるような気がした。黒光りのする刃、ハッキリと切られている横手。当て具合を容易に想像できる。道場の裏庭には青竹があって、独り稽古なら真剣を使ってもよいと云われていた。翌朝、早く起きて早速試したいと思った。

 国重を使っての稽古を思い浮かべている内に眠ってしまっていたようだ。ふと物音で目が覚めた。勝手口から何かが倒れたような音がした。障子の向こうは暗闇。壁の打刀を手に取って廊下に出た。気配を消すようにして、勝手口に向かった。

 上り口に誰かの背中が見えた。黒羽織。背中を丸めて何者かが座っている。先生なのか。肩で息をして苦しそうだ。

「先生」

 自分の声にゆっくりと先生は首をこちらに向けた。そして大きな溜息をつくと、「起こしてしまったか。すまぬ」と呟いた。先生は、外出されていたようだ。自分が近づくと、先生は後ろ手で遮るように自分を止めた。

「部屋に……戻る」

「わたしも直ぐに休む……」

 先生は草履をゆっくりと脱いでいる様子だった。酒でも飲んでおられるのか。暗がりの中で、うずくまっている背中が気になったが、言われた通りに自室に戻って布団に入った。それから暫くして、先生の影が廊下を通った気配がした。静かな様子に、部屋に入ってすぐに横になられたと思った。自分も眼を瞑って眠りについた。

 翌朝、道場に先生が現れた時、右足を引き摺っていた。構えは軸足を左に変えて利かない足を庇う。相手の重心が傾くのに乗じて突きで攻めた。それでも木刀の先で掬われる。次の一手を打つ前に先生は思い切り下段から水月を突いてきた。後ろに飛び下がったが、間を詰められて胴をとられた。

「残心」

「はい」

「欠けを狙ったばかりに、居付くことになる。出身(でみ)の剣を忘れてはならぬ」

 先生は自分の足元を見ていた。下がった時に、両方の足が同じ向きで踏ん張ったままだった。右に開いても、左に開いてもよい、次の一手のために踏み込めと云われた。先生は足を引き摺りながら、元の位置に戻り次の手で攻めてくる。

「真剣勝負だ」

「陰陽の欠けとは、相手の重心と剣の流れの偏り」

「それを見つけて前に攻める。引いてはならん」

 次々に剣先がおのれの身を突いてくる。だが、引かずに踏み込む。

「ここまで」

 打ち合いの途中で稽古を終えた。片付けをしている間、先生は掛け軸の前でじっと待っている。

「今日教えたことは、流派とは関係のないものだ」

「面を刺す。真剣を持つものの基本だ」

「絶えず相手の心を制し、相手が動けば剣先でその面を刺す心で前に出よ」

「はい」

 深く互いに一礼をして道場を後にした。まだ陽が高い。先生は勝手口に食糧を届けにきた誰かと話をしていた。道場の裏で、青竹の試し切りをしていると、太助と呼ばれる人がいそいそと井戸から水を汲んで母屋に運んでいた。洗濯物を取り入れて母屋に戻った時、台所の土間で先生は湯あみをしていた。何か草を燻したようなきつい匂いがお勝手中に充満していた。褌姿で背中を丸めるように腰かけに座る先生の足に太助が真っ黒な湯を掬っては掛けていた。先生は自分の手拭で、首や背中の水を拭きとっている。

「ありがとう。これで十分だ。良くなった」

 先生はそう言って、立ち上がろうとした。自分は背後から手助けするつもりで先生に近づいた。その時、盥の中にある先生の足が見えた。膝から下が真っ黒な皮膚で覆われていた。それは、盥の中の薬湯の色よりどす黒く、紫色をしたふくらはぎと抉れた脛が蝋で固めたように艶々としていた。いつも作務衣で隠れている足元がこのような状態だったことに驚きを隠せない。

 言葉を失っている自分の目の前で、先生は立ち上がると直ぐに傍にあった着流しを羽織った。太助は手桶で盥の中の薬湯を掬って、勝手口の外の溝に流した。先生は、足元を丁寧に拭うと雪駄を脱いで、ゆっくりと上がり口に上がった。

「こうして行水するのが楽しみだ。この足で湯屋からはすっかり遠のいてしまってな」

「岡崎の鷺湯に行ったことはあるか」

「はい」

「ここいらでは一番落ち着くいい湯屋だ」

「今日はもういい、ゆっくり入って来るといい」

「はい」

 先生に言われた通り、橋向こうの鷺湯に行った。先生の右足は、病から来ているものなのか、怪我から来ているものなのか、自分にはわからなかった。道場での様子から、歩行に障りがあっても稽古は出来る状態のようだ。だが、あの黒々とした皮膚は尋常ではない。考えてみたら、正座をしている時も膝から下を崩しておられる。医者には診て貰っているのだろうか。太助さんが薬湯を用意していたが、いつもああやって世話に来ているのかもしれない。

 その日の夕餉は筍の煮物だった。江戸では、母上が甘辛く煮たものを出してくれた。衣をつけて揚げたものも好きだ。柔らかい昆布と一緒に皿に入っている若筍。京で食べるものは出汁が薄味で飯の足しにならぬと思ったが実際は違う。先生は食すものに関して、拘りがあるようだ。出されるものは素朴なものばかりだが、全て美味い。

「食いっぷりのよい其方をみておると気持ちがよい」

 一度昼餉を食べている時、面と向かってそう言われた。余程、がっついておったのだろう。気づかなかった己が恥ずかしかった。先生はいつも小食だ。なのに毎日三合の米を炊いて出してくれている。上洛してから一度もひもじい思いをしないでいられることが有難かった。

 二月に入って、辰之進と一緒に目録を授かった。道場の鹿島大明神の掛け軸の前で参拝して式を終えた。翌日から辰之進も打ち合い稽古を始めるようになった。昼間の陽の光は眩しく、日も伸びてきた。稽古の後に井戸端で汗を拭うのが気持ちいい。先生に居合いの独り稽古をどんどんやれと勧められた。休みの日に、太助が東山の麓にある竹林に連れていってくれた。青竹を切り出してよいと云われた場所で、よい竹を一本貰って来た。五尺の長さに切ったものを束ねて大八車に積んだ。筍も見つけたものを採って持ち帰った。毎日、筍を食べすぎて口の中が荒れたが、それでも食べ続けた。

 江戸の事を忘れるぐらい、稽古と道場での用事に日々充実していた。

つづき