庇の影その9
将軍家茂公が上洛してから数日のこと。
斎藤は独り、朝稽古をしていた。十分に汗をかいた後、勝手口で昼餉の準備をしていると、東御役所より文が届いた。
すぐに先生の元へ文を届けた。先生は、布団から出ていざるように自分に近づき、ゆっくりと正座をした。黙ったまま自分に腰かけるようにと仕草で伝えると、受け取った文を開いて読んだ。
「石橋十四郎からだ。分限帳にそなたの帳付が整ったと」
「これでよい」
「今後、身元検めがあっても御役所の帳付があると答えればよい」
「ありがとうございます」
「太助が今朝方報せにきた。家茂公が無事に二条城に入られたそうだ」
「そなたの江戸の道場主だが、幕府浪士の宿所がどこか判った」
先生は石橋十四郎からの文と一緒にもう一枚半紙を取り出すと、そこには「壬生村新徳寺」と走り書きがされていた。
「壬生村は四条を下ったところだ。坊城通にある寺だ」
「道場やわたしの世話はよい」
「積もる話もあるだろう。京にいる内に訪ねて行けばよい」
自分は「はい」と返事をした。先生は、勝手口から米でも乾物でも持っていくようにと言って微笑んだ。四条、坊城通、新徳寺。心の中で繰り返し場所を覚えた。二条城の外濠で見た守備方の詰め所を思い出す。皆が上洛している。近藤先生、土方さんにお会いして無沙汰を詫びたい。
「剣を置くと。虚ろになるものだと思っておった」
突然、先生が話し掛けてきた。自分は長く考え事をしていたらしい。顔を上げて先生を見ると、先生は開け放った障子の向こうに顔を向けていた。明るい光が縁側を照らし、障子を通して柔らかく白い影が畳に出来ている。
「道場の門人に剣を捨てたものがおる」
「もう何年も昔。まだ私が道場を引き継いで間もなくの頃、その者は丹波からやってきた」
「加納長次郎は、三田藩の十文字家に代々使える家で、父親が上意討ちをしたことで騒動の末に同僚に殺められた」
「長次郎は仇討ちをするために、京にやってきた」
「お家取り潰しの汚名を濯ぎたい。その一心で稽古に励んだ」
「元より才もあり、一年の精進で奥許しを与える程に腕を上げた」
「正式な帳付の元、東御役所のお白洲で仇を打った。三田藩の家老も立ち合い、お家の再興、藩士として召し抱えられることまで決まった」
「だが長次郎は、三田藩に戻ることを拒んだ。家名を絶やすことは忍びないが、剣を置くと」
「齢二十五で長次郎は出家した。両親を弔い、己が仇の相手を弔い続けると。剣を振るう意味を失くした。そう言っておった」
「わたしは長次郎が仇打ちを果たし、気持ちの落ち着き先を失ったのだと思っておった」
「全てが虚しくなったのだろうと……」
——何故剣を振るうのか。
「人を斬ることに道理は必要かと問わば、そなたは必要だと答えるだろう。わたしは、そこに道理は要らぬと思っておる。刀は斬るために振るう。己が斬られぬよう精進する」
「そなたは笑うだろう。刀で膝を切られ、それでも縋り付くように生きる愚か者がここにおる」
「多くを殺め、それでもただ生きていくしかない」
「己が斬られれば、負ければ死ぬ」
「そこに虚しさはない」
自分は何も答えられなかった。これは、江戸で人を殺めてから、ずっと己に問いかけていることだ。堂々巡りのどうしようもない問いかけ。まるで呪詛の言葉のように、答えがみつからず深い闇の底に己を追いやる。
「長次郎は、丹波亀岡に庵を結んでおる。朝露を集め。一握りの米で粥を炊き。念仏三昧の毎日だそうだ」
——ここを畳んだ後は、長次郎の元へ行こうと思っている。
「母親の菩提を弔い。己が殺めた命のために念仏を唱えようとおもう」
「大いに遅い。機を失してから長くが過ぎた、とうの昔にやっておかなければならなかった」
「そなたに言っておくことがある」
先生は自分の瞳をじっと見詰めて、頷いた。
そこに光があるのなら、臆せずに進みなさい。
陰に引き戻されても、光をみることを忘れてはならぬ。
恐れてはならぬ。
自分は「はい」と返事をした。声が震える。喉に熱い塊がつかえたように感じる。
「先生、わたしは……先生から教わりたいことがまだ」
「必要なことは全て、わたしの知っている事は全て教えた」
「そなたと手合わせをして、剣を置く決心がついた」
「心より礼を言う。道場に来てくれてありがとう」
先生は丁寧に両手をついて礼を言い顔をあげた。
「源之助には、礼を尽くしても、その恩に報ずることは叶わぬ」
「恩は返せるときに返すことだ。機を待ちあぐねていてはならぬ……」
なんとか震える声で「はい」と返事をすることができた。膝に置いた手を強く握り絞めて涙を堪えた。
「先生に学んだことは決して忘れません」
「これからも精進して参ります」
畳に両手をついて深く一礼した。恩を返すには大きすぎる。ただ感謝をして、己に出来る限りのことを全力でやるしかない。
俺にはそれしかない……。
決心をしたら、全てが明確になった気がした。
己が持てる全ての力を、浪士の元で使おう。それが、己を認めてくださった師と仲間への恩返しになる。
そうして日々精進すれば、きっといつか先生への多大な恩義に報いることが叶うのだろう。
翌日、早朝稽古のあと、片付けを済ませて道場を出た。向かう先は壬生村新徳寺。江戸から上洛した浪士の宿所だということは判っている。そこに近藤さんと土方さんが居る。
ここ数日の寒の戻りが一転して、陽射しが眩しく歩いていると汗ばむくらいの陽気だった。白川沿いに通りを下り祇園に出る途中、粟田町の焼き接ぎ屋に立ち寄った。先生がどうしても修理に出したいという器が入った木箱を工房の上り口で渡すと、中を開けた主人は「へえ」と感心しながら品物を検めた。青磁の浅い皿には、美しい模様が描かれてあった。真ん中を斜めに四つに割れた破片を柔らかい布の上で丁寧に置いて、ほぼ元の通りの形に整えるように上から下からと何度も継ぎ目を確かめている。
「そうですなあ、十日はみてもらいましょか」
職人は、お代はお引き取りの時で結構ですと云うので、そのまま品物を預けて店を出た。持っていた荷物は軽くなり、更に足早に道を進む。河岸には柳が連なり、風に吹かれた枝が時折足元の砂を撫でている。柔らかい若芽がちらほらと細い枝に均等に並んでいた。そういえば、道場の裏庭の大きな柳が枝を伸ばしているのを、剪定が必要だと言って、先生は近所の植木屋を呼んで、若芽を丁寧に刈り取ってもらっていた。
数日の間、縁側に柳の若芽が広げられ、薄緑の優しい香りが漂っていた。先生は午後の明るい内に部屋の障子を全て開け放ち、物入れの中から行李や木箱を出して片付けをしている。中庭に虫干しをするように広げられた書物や調度。合間に古椀買いや、ほうき買いが現れて、勝手口から、木の椀や瀬戸物を持ち帰っていく。元から、水屋箪笥の中はがらんどうであったが、物がどんどんと無くなっていく様は、どこか落ち着かない心持がした。
ふわふわと芽吹く紫色の柳の花を眺めながら、川面に跳ね返る陽の光を受けて白く浮かんだように見える石橋を渡った。祇園も近い。通りに人出が見えてきた。相も変わらず賑やかな場所だ。四条大通に連なる店の軒下を歩く。小間物屋の店先に色とりどりの縮緬で覆った菱形の小箱が並んでいた。濃い色模様が目に飛び込んでくる。道端の朱塗りの行灯。
普段、宮ノ脇橋では、木々の緑と庭先に咲く淡い色の花しか目にしていない。道場は男所帯ゆえ、小間物も色の濃淡は墨染から木枯色ぐらいで、色取りというものはない。人通りの多さと明るい彩色にどこか別世界にいるような気になった。江戸とは違う華やかさ。通りの右側を歩いている事もあるのだろう、行き交う人々と正面でぶつかりそうになる。仕方があるまい。そう思いながら、通りを横切って左側の軒下に移った。右差しの自分は、常にすれ違う者との距離をとる。間合い、歩の早さ、すれ違う時の息遣い。江戸に居た頃から奇異な目で見られるのには慣れている。たしかに京の者は、露骨に睨みつけてくる。
「どこぞの不調法者や」
そんな声が聞こえる。以前はそういった言葉のひとつひとつに肚の蟲が収まらず、鬱憤とした気持ちを抱えていた。今はさほど気にならぬ。いや、確かに俺は不調法者なのだろう。だが刀の鞘がぶつからないように歩けば済むことだ。
「間合いをとればよい」
先生ならそう言って一蹴するだろう。
「ぶつかった時は、その時だ。相手が向かってくるならやっちまえばいい」
新八や平助なら、そう言うだろう。総司なら、「ぶつかってくる前にやってしまえば」とけし掛けそうだ。通りですれ違う人々を見ながら、そんな事ばかりを考えていた。江戸を出た昨年の暮れから三月。長かったような、あっという間に過ぎたような。ただ、明るい陽の光と地面から立ち上る砂埃に、自分が今から向かう先が一番己の欲している場所なのだという実感がじんわりと涌いて来た。胸の内に沸き起こる焦燥と希望とがない混ぜになったような。久しく感じていなかった胸騒ぎ……。
「このまま堀川どおりを横切ってまっすぐ」
「へえ、ずっとまっすぐ行きはったら、壬生村に」
「坊城通を。へえ、少し狭い通りどす。そこを左へ行きはったら」
京の者は通名で道を教える。新徳寺は坊城通にあるらしい。そうか。一段と足早になる。通りの角を左に曲がって進んだ。太陽が正面に輝いていた。もう昼四つに近い。通り沿いの建屋を一つ一つ確かめながら歩いた。新徳寺はすぐに見つかった。立派な寺門を通って、本堂らしき大きな建屋の前で中に声をかけた。
「御免、どなたか居られるか?」
本堂の中から人の声が聞こえていた。誰かが走り回るような音もしている。随分と騒がしい。自分の声が中に聞こえていないのではと思い、もう一度大きな声で中に呼びかけた。暫くして、衝立の向こうから大きな足音が聞こえて、総髪の男が顔を見せた。
「寺に御用でござるか」
「こちらに幕府浪士が駐屯していると聞いて訪ねて参った」
「近藤さんにお目通り願う」
「近藤? どの近藤だ」
羽織袴姿の男は、手に何かを書かれた紙と筆を持ったまま、酷く苛立った様子で尋ね返した。
「江戸甲良屋敷、試衛館道場の近藤勇先生にお会いしたい」
「甲良屋敷。試衛館……。相分かった。そして、その方」
「斎藤一と申す」
「武州石田村の土方さんも、もしこちらに居られれば訪ねてきたと伝えてほしい」
男は玄関口で待っていろと告げて、再び衝立の向こうに消えて行った。建屋の奥からは、人の声やバタバタと廊下を歩きまわる音が聞こえている。一体、何が起きているのだろう。戦でも起きるのだろうか。だが、待てども待てども、誰も出てこない。四半時は経ったのだろうか、随分と待って再び声を掛けようと思った時、さっき顔を出した男と、もう一人別の男が現れた。
「斎藤殿と申されたな。近藤勇は三番組の者と一緒に八木源之丞の本宅へ分宿しておる」
「石田村の土方歳三も一緒だ」
「この近くだ。案内しよう」
もう一人の細長い顔の男が裸足で草履を履き、自分の前を通り過ぎて手招きした。
「宿所は同じ通りにある。ここを出て右に、通りの左側の三軒向こうに、石畳が奥に続く入口がある。大きな御門のある屋敷だ」
「八木の家と言えばわかる」
男は親切に通りの向こうを指さして見送ってくれた。自分は礼を言って、八木の家に向かった。奥まった所に武家屋敷のような立派な門が見えた。新徳寺とは違い随分と静かだ。玄関の中は暗く、誰も人がいる気配がない。入口を間違えたか。そんな風に思って引き返そうとしたときに、誰かの声がした。
「あんた、そこで何をしているんだ。この家に何か用なのか?」
振り返ると、門から入ってきた男に突然尋ねられた。とっさに持っていた荷物を地面に置くと、刀の鞘に右手を掛けた。男の警戒するような目線。この家の者か。もしやすると、三番組で近藤さんと一緒に分宿している浪士やもしれん。
「近藤さんか、土方さんはおられるか」
尋ねてみると、男の表情が若干変わった。
「あの人たちの知り合いか」
と問われた。この者、大方門番でもしておるのだろう。ここは、確かに近藤さんたちの宿所なのだろう。男に案内されて、建屋の中に上がった。ついて来いとぶっきらぼうにいう男は、自分から「井吹龍之介」と名乗った。
「用件は、一体何だ? 得体の知れない奴を中に入れる訳にはいかない」
と、この者に問われて、一瞬答えに困った。用件。そうだ。ここに近藤さんと土方さんを訪ねる理由。
(恩義に報いる為。受けた御恩を返す為だ)
「俺の名は、山口一。江戸に居た頃、近藤さんや土方さんに世話になっていた」
「名前を云えば、わかるはずだ。取り次いでもらえるか」
井吹龍之介はやっと納得したような表情になった。廊下を進んで、案内された部屋の中に土方さんが居た。俺の顔を見て、「山口、山口じゃねえか」と大声で言うと。
「なんだよ。随分久しぶりだな」
と、いつもと変わらない口調で、「入れ、入れ、座れ」と手招きした。
土方さんは江戸を出てからの事を話してくれた。合間に、「今までどうしてたんだ?」と訊ねられて答えに困った。心配を掛けてしまって本当に申し訳がない。それでも、土方さんは「いや、言いたくなければ、聞かねえよ。わざわざここに来たってことは、おまえも浪士に?」と問われた。自分はそのつもりだと答えた。目の前の土方さんの顔がぱっと明るくなった。白い歯を見せて、「そうか」と笑っている。変わらないこの人は。
「お前が来てくれて助かる」
「腕の立つ奴が一人でも欲しい」
土方さんの瞳は輝いていた。「よし」と言って、膝をたたく仕草も変わらない。俺は「はい」と言って頷き続けた。気分が高揚する。光が部屋の中に射し、自分は背筋を伸ばして土方さんの顔を見つめ返した。何よりも嬉しかったのは、土方さんの声を聞きつけて、新八や総司が部屋に駆け付けてきたことだ。
「はじめくん、ひっさしぶりー」
「いつの間に京に来てたの」
久しぶりの再会に頬がほころぶ。ほんの数か月前のことなのに、何年も会えていなかったような気がした。懐かしい面々。総司、平助、左之、新八……。無沙汰をしていた。会いたかった。
「ねえ、はじめくん。手合わせしない?」
矢継ぎ早に皆が話し掛けてくる中、総司が障子の傍で立ち上がりながら誘って来た。
「よかろう」
手元の刀を手に取って自分も立ち上がった。
*******
壬生村
「こっちだよ」
総司との久しぶりの手合わせの後、壬生寺の境内を出ると、総司は来た道とは逆方向に歩き始めた。傾き始めた陽の光の中、坊城通を下っていく。
「ねえ、さっきの手合わせだけど」
「はじめくん、手を変えた?」
「どこかで剣術修行してたとか」
総司は、前を向いたまま尋ねて来た。
「ああ、いろいろあってな」
総司は、「そう」と一言。納得しているのか、していないのかはわからぬ。だが、総司はそれ以上何も尋ねて来なかった。
「八木の家以外にも、浪士はこの辺りに分宿していてね。近藤さんは、二条城に毎日のように通って幕閣の御役人さんと会っているよ」
「今日も朝から出掛けていった。はじめくんと入れ違いにね」
「ねえ、さっき土方さんが夜に話があるって言ってたけど。夕餉も一緒に食べて行くんだよね」
「ああ」
「泊まっていく?」
「ああ」
総司は、「それなら」と道をどんどんと進んで、通りの角を曲がって歩いていく。
「岡屋丁の豆腐屋に行くよ」
「夕餉に豆腐を出して貰おう」
総司は夕餉の心配をしているようだった。朝から自分以外にも何人か客人が宿所を訪ねて来ているようなことを平助が言っていた。浪士は思った以上に大所帯なのだなと思った。総司が向かった豆腐屋は、店先に竹の腰かけが置いてあって、そこに座っていると、豆腐屋の女将が冷たい湯飲みを載せた盆を運んできてくれた。
「冷やし飴。美味しいよ」
総司に促されて、湯飲みに入ったものを啜った。確かに良く冷えていて旨い。今日は朝から夏のように暑い。それにしても、このような甘くて美味い飲み物は生れて初めて飲んだ。さっぱりとしていて生姜の香りがよい。
「一杯二文。安いよね」
「僕、上洛して一番気に入ってる。これ」
総司は宿所を抜け出して、こっそりとここに冷やし飴を飲みに来ていると言って笑った。宿所はさぞや浪士たちが忙しくしているのだろう。豆腐屋を後にして、再び通りを四条に向かい、ぐるっと壬生村を一周して再び八木邸に戻った。そこで、日野の佐藤道場で一緒に稽古をしていた井上源三郎や山南敬助とも再会した。早い夕餉を広間で済ませた後、土方さんと二人だけで部屋で話をした。近藤さんの戻りは遅くなるらしい。
「幕府からの後ろ盾や支度金が下りなくて困っている」
「将軍さまが江戸で攘夷をするってことになると、江戸に戻らなきゃならねえ」
「近藤さんが、洛中に将軍がとどまってくれれば、俺等もここで護衛出来るって直談判しようとしていてな」
ここまで説明して、土方さんは溜息をついて、湯飲みの白湯を一気呑みした。
「浪士の世話役ってのが、別にいるんだ」
「芹沢っていってな。ここの宿所に寝泊まりしている水戸藩浪士だ」
「そいつが京に残りてえ浪士を纏め、役人に話をつけている」
「試衛館と違って、近藤さんが上に立っていねえ分、話がややこしい」
土方さんの話では、浪士がこのまま将軍の護衛の任に就く事もままならぬようだった。
「なんの為に江戸から上洛したんだって」
「幕府の役人が俺達を江戸に戻そうとするにしても、家茂公が京や大坂にいるなら、それを護衛するのが俺等の務めだろう」
「山口、いや斎藤か」
「はい」
「斎藤、お前がどうして試衛館に来なくなったかは、俺は訊かない。だが、どうしてここに来た」
「江戸では大変お世話になりました。俺は近藤さんと土方さんに恩義を感じています。今、この機を逃して他にはありません。恩返しがしたいと思っています」
深紫の瞳はじっと己の顔を見詰めている。自分の決心を明確に伝えた。土方さんは、「そうか」と頷いた。
「お前は俺の見込んだ男だ。頼りにしている」
今日、壬生村に来て良かった。江戸を出てから数か月。ずっと自分に問いかけて来たこと。己は何の為に剣を振るうのか。強くあることの意味は。今なら解る。
俺は己の剣を役立てよう。
この人の刃となって。
日々精進し、己の受けた恩義に報いる。
そうすることで、俺は吉田道場で受けた教えを全うすることができる。
*****
近藤先生との再会
壬生村の宿所で近藤先生に再会したとき、夜中をとっくに過ぎていた。先生は以前と変わらぬ大らかな様子で、自分が浪士に加わることを殊の外喜んでくれた。
「真に心強い」
「なに、苗字が変わった」
「相分かった。斎藤君だな」
俺は大きく頷いて「はい」と応えた。
「今朝は鵜殿さんと一緒に城へ赴いて、幕閣の御役人から市中見廻りをするように命を受けた」
土方さんは、傍に置いた盆の上から鉄瓶をとって湯飲みに白湯を注ぐと、どんと近藤先生の目の前に差し出した。先生はそれを一気に飲み干している。
「今日、新八と平助、原田が見物もかねて、通りを一通り不逞浪士が居ねえか見て来たよ」
「おお、そうか。永倉君たちが、もう見廻りに」
「それならよい。市中では不逞浪士が跳梁跋扈しておると聞いた」
「この前もそうだったろう。大樹公が通るというのに、京の連中は通り検分も碌にしておらんというじゃないか」
「明日、京に残りたい旨を願いでる」
「芹沢さんが嘆願書を準備している。我らも名を列ねよう」
近藤先生は瞳を輝かせている。
「大樹公が京に留まり、いよいよもって攘夷を実行される。それに馳せ参じるのが我らだ」
土方さんが頷き、俺も「承知しました」と言って、その場を下がって客間に戻り横になった。何人か、見た事のない浪士が客間で先に横になっていた。大鼾をかいて寝ている傍で、俺は高揚する気分のままずっと眠れずに朝まで起きていた。
翌朝、大広間で京に残留を希望する浪士たちが集まり、嘆願書に署名した。
江戸 斎藤一
出身地と姓名を書いた。自分の外に十六名。筆頭は「芹沢鴨」と記されていた。この席で初めて、残留浪士を取りまとめている芹沢さんに会った。芹沢さんと同じ水戸藩浪士が他にも数名。互いに紹介しあった。試衛館の面々は、母屋ではなく離れを寝所としていて、普段は芹沢さんと顔を合すことがないと総司が耳打ちしてくれた。廊下や母屋の勝手口で、井吹龍之介と顔を合すことが度々あった。その度に、ぶっきらぼうに話かけられる。
「斎藤、だったな」
井吹はどこか掴みどころがない男に思った。まだ新しく隊に加わったばかりの俺のことを警戒しているのだろう。井吹のことを、「芹沢さんの下僕同然の可哀想な子」と総司が言っていたが、在留嘆願書に名前を列ねていないところから、正式な浪士ではないのだろう。
ここ数日内で、浪士が江戸に戻ることになるかもしれない、という土方さんに引き留められて、八木邸に留まることになった。道場を留守にすることを先生に断って来たが、いささか長逗留になっていることが気になった。だが、平助や総司と宿所の掃除や手合わせをしている内にあっという間に陽が暮れる。夜に近藤さんの部屋に皆で集まって、これからの事を話し合う必要もあった。新徳寺から伝令が来るたびに、近藤さんが羽織を着直して、夜中でも出掛けて行く。
道場を留守にして、四日が過ぎた。幕閣から江戸帰還の御命が下れば、明日にでも土方さんたちは京を出立することになる。その時俺は、一緒に江戸には戻れぬ。皆が、報せを受ければすぐに出立の準備をしなければならないからと、ずっと夜中も起きていた。沸かした白湯を呑みながら、総司や土方さん、新八たちと語らいながら、心中では名残りを惜しむきもちが抑えらえないでいた。
近藤先生は、明け方に戻って来た。
残留組はそのまま八木邸に駐屯することが許されたという。皆が広間で安堵の声を上げた。将軍家茂公も暫くは京と大坂を行き来することになるだろうという事だった。浪士として、護衛できるなら。心にじんわりと希望の光が広がるような気がした。
日が昇ってから、近藤先生と土方さんに断り、一度宮ノ脇橋に帰り身辺整理してから壬生村に戻る事にした。来なくて良いと言っても、総司は四条河原町まで見送りについてきた。
「ねえ、今度はじめくんの道場に稽古しに行ってもいい?」
「もう道場は畳むことになっている」
「そうなんだ」
横目で総司の顔をみると、本気で残念がっている表情をしていた。平静を装っているが、眼には少し怒りが見て取れた。道場での稽古は無理でも、一度総司との打ち合いを先生に見て貰いたい。自分も内心、そう願った。
(先生が、総司の剣をみたら。きっと、再び剣をとりたいと思う筈だ)
「なに、はじめくん」
気付くと総司は自分の顔を覗き込んでいる。いぶかしがる総司に、「いや、なにもない」とだけ答えた。河原町で総司と別れて、道場に戻った。五日ぶりに先生の顔を見て安堵した。先生は、思ったよりずっと壮健で、太助と一緒に庭の片付けをしていた。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
「斎藤さん、おかえりなさい」
太助と先生は、中庭に広げた筵を畳み、麻紐で縛っていた。自分も刀を置いて手伝った。昼餉を近所のお嶋さんが用意してくれ、太助と一緒に勝手口で食べた。先生は、午後は休むといって部屋で横になっていた。薬を持って行った時に、先生から預かった瀬戸物の修理があと五日で仕上がると伝えた。
「ありがとう」
「あれは先代から受け継いだ代物だ。うっかり落として割ってしまった」
「粗忽者はこれだから困る」
先生は笑っているが、自分は心中で先生は最も粗忽からは遠い人だと思った。
「先生、わたしは浪士に加わることにしました」
「ここを出て、壬生村の宿所に移ります」
先生は静かに「そうか」と言って頷いていた。微笑むその顔は、「そなたが決めたことなら」と言っているようで、自分は大きく頷き、両手を畳について、感謝の気持ちを伝えた。
「ありがとうございました。己の身の振り方をやっと決めることが出来ました」
先生は「横になったままでかたじけない」と、手を上掛けから出して、顔を上げるようにと言うと。
「ここにあるもので持っていけるものがあるなら、持っていけばよい」
「わたしが寝ている間でもよい、障子は開けておくから」
「そうだ、そこの棚においてある書物。ああ、それだ」
先生が指さす書物を手に取った。「不動智神妙録」と書かれた澤庵作のもの。昔、貸本で読んだことがある。
「先代から受け継いだものだ。安政元年とあるだろう。古いものだが良い書だ」
「何度読み返しても学ぶことが多い」
「もし、持って行きたければ、持ってお行き」
先生は少し掠れるような声でそう言うと、そのまま目を瞑った。いつも薬を飲んだ後は、すっと眠りについてしまう事が多い。上掛けを整えて、先生が静かに休んでいることを確かめてから部屋に戻った。押し入れにある行李から打ち刀を取りだし、風呂敷に全ての荷物を包んだ。それから先生から貰った兵法書を、陽が暮れるまで読みふけった。
翌日、片付けを済ませて先生の部屋に行くと、先生は起きて長着に着替えていた。
「昨日、話をしました通り、浪士は家茂公の護衛の任につけるかもわからずにいます」
「今日これから試衛場の仲間と二条に出向き、幕閣役人に歎願が受け入れてもらえるか話をしに行きます」
「御役人より市中見廻りの命を受けています」
「忙しくなるな」
「はい、稽古を怠らないよう精進いたします」
先生は文机の引き出しから書状を取り出した。
「これは、そなたの身元証。東町御役所の分限帳にある通りだ。太子流の目録と一緒に渡しておこう」
そして先生は、包みを書状と一緒に自分に差し出した。
「これは、そなたへ返そう」
「ここへ来た時、入門の費用だと言っていた金子だ」
「道場を出る餞別として受け取って欲しい」
と言って、もう一つ別に袱紗に包んだものを差し出した。
「これは、そなたの父御へ返そうと思っていたもの。江戸に戻ることがあれば、どうか源之助に渡して欲しい」
「わたしはもう江戸へ戻ることは叶わぬ」
「そなたの父御にくれぐれも伝えて欲しい。感謝しておると」
「はい」
先生は、縁側から道場の玄関にでて、そこから見送ってくれた。宮の脇橋の袂で、もう一度振り返り、頭を下げた。
先生が大きく頷いている姿が見えた。
******
終章
元治元年七月二十九日
まだ暗い内に丹波亀岡を発って屯所に着いたのは昼四つだった。
十日前に起きた蛤御門の変の直後に、東町の太助より屯所に報せがあった。
先生が息を引き取られた。
丹波で荼毘に臥せられた。
吉田房之介。己の剣術の師であり、人生の師である。先生は前年に京の道場をたたみ、丹波亀岡の小さな寺に庵を結んでいた。音沙汰はなく、ひっそりと誰に知られることもなくこの世を去った。京の街が焼け野原になった事を先生は知らないまま逝かれた。それは良かった。
市中は再建の為に多くの材木を載せた荷車が行き交い、焼け焦げた建屋は取り壊され、人や車の流れは少しばかりの混乱を生んでいた。新選組の巡察はそれでも続けられた。そんな最中、二日間の暇を貰い、亀岡まで先生との最後の別れに山道を急いだ。
小さな山寺の庭の片隅に先生の墓が建てられ、先生の御母堂が一緒に弔われた。墓前に市中見廻りをしていること、日々精進し励んでいることを報告し、今朝早くに亀岡を発った。
屯所に戻り、通りの湧き水で喉を潤した。辺りは静かだ。もうとっくに隊士達は朝の巡察に出ているのだろう。手甲と襟に巻いた晒しを取って、水で濡らした手拭で汗を拭い、荷物を持って屯所の玄関に向かおうとした時、門の向こうから雪村千鶴が箒を持って出てきた。
雪村はこちらに気付かない様子で、背を向けたまま門を見上げて居る。それにしてもおかしな恰好だ。この暑いのに、手拭を深く頬被りして顎で結んでいる。箒の柄を地面に突き差すように仁王立ちになっている姿はどこか滑稽だった。
「雪村」
背後から声を掛けると、一瞬飛び上がったようになって振り返った。
「斎藤さん、お戻りになられたんですね」
「おかえりなさいませ」
雪村は箒を持ったまま駆け寄ってぺこりと頭を下げた。よく見ると、雪村も手甲をつけている。
「ただいま戻った。どこかへ出かけるのか?」
「いいえ」
雪村は不思議そうな顔をして首を振った。自分が手甲を見ているのに気付くと、「これは、今から蜘蛛の巣退治をするためです」と説明を始めた。
「あそこ、新選組の看板の上を見てください。大きな巣が出来ています」
「今朝早くに、夜の巡察から戻られた原田さんが教えてくださったんです」
「女郎蜘蛛が、屯所の看板に大きな巣を作ったって」
「俺の掌より大きな蜘蛛だ。でっかい蜘蛛の巣だから気をつけろ、って」
「他の場所なら構いません、でも大切な看板に巣をはるのはいけません」
「だから、これで掃おうと思って」
雪村は箒の柄を持って逆さにして宙を振り払うように動かした。確かに、門の軒下から巨大な女郎蜘蛛が大きな巣を看板の上に造っていた。その大きく長い手足はしっかりと巣の下の方に掴まり、胴体は毒々しい朱色と緑と黒色の縞模様をしている。雪村は、箒の先で巣を絡めとり、蜘蛛が反撃してきたら箒で応戦する覚悟でいると語った。手拭を頬かむりしたのは、万が一、蜘蛛が頭の上に飛びついてきた時のためだという。
「蜘蛛の化け物には負けません」
「こうして、掃って、突いて」
「やあー、そりゃーっ」
小さな雪村が箒を振り回して空を衝くさまは大層滑稽だった。笑いが堪えきれん。雪村は、そのままの勢いで巣に向かったが、巣の一番下にさえ全く箒の先は届かず、空を虚しく斬っているだけだった。
「貸してみろ」
荷物を地面に置いて、雪村から箒を貰って巣を掃った。蜘蛛は巣と一緒に地面に落ちたが、素早く地面を駆けて門と植木の間に姿をくらまして見えなくなった。雪村は、二軒離れた先まで逃げていった。「蜘蛛はいなくなった、大丈夫だ」と言うと、ようやく安心して戻って来た。軒下の出っ張りから看板周りに残った巣の残骸を箒で掃い落した。雪村は、頭の手拭をとると、拡げて箒の先に結び、看板の埃を掃い始めた。
「斎藤さん、有難うございます。これで大切な看板が綺麗になりました」
雪村は丁寧に看板を拭きとっている。
「この看板は、江戸から送られてきたものだ」
「副長の兄上が贈ってくれた。もう一年になる」
「われら浪士が会津藩より新選組と拝命を受けた記念になると」
「この看板を掲げた日のことは、今もよく覚えている」
ただの浪士であった己が、会津藩より正式な隊名の一員と認められた。背筋が引き締まるような。その名に恥じぬように精進したいと思った。
「そうだったんですね。立派な字です。とても立派な看板です」
「ああ」
門と軒下の隙間から射した陽の光で看板が輝いているように感じた。雪村は隣で自分と同じように看板を見上げている。
「斎藤さん、長旅から戻らればかりなのに、お疲れのところをこのような手伝いをさせてしまって、申し訳ありません」
雪村はあわてて、地面に置いてあった自分の旅行李と三度笠を抱えて、門の中に入って行った。
「よい、俺が持つ」
「いいえ、斎藤さんは、先に玄関の上り口で待っていてください。わたし、足水を汲んで参ります。草鞋と足袋を解いていてください」
自分が断ろうとする前に、雪村は勝手口に向かって走って行ってしまった。雪村の袴が翻り真っ白な足袋が、パタパタと地面を蹴る音と共に光の中に消えて行った。その明るい眩しい光は、真っ直ぐに門の影まで伸びている。自分はそこから今一度、新選組の看板を見上げた。軒下に堂々と掲げられた文字は、一年前と変わらず。
松平肥後守御預 新選組屯所
ただの浪士であった己が存分に剣を振るい仕える場所。
そして、これからも。この想いは変わらない。決して。
門の庇から出来た影。先生はいつか教えてくれた。
そこに光があるのなら、臆せずに進め。
恐れてはならぬと。
そう心の中で頷いた。そして庇の影から一歩、眩しい地面を踏みしめ玄関に向かった。