濁りなき心に31
慶応二年九月
残暑の厳しい午後、屯所に小原女の葵が花を売りにやって来た。千鶴は、上り口で葵の拡げた筵の上の花を選んだ。
「桔梗に、女郎花、この黄色のは?」
千鶴が、質問すると。
「茴香(ういきょう)いいます」
「お薬の?」
「へえ、花が終わった実は薬に使われます。甘い香りが。うちはこの香りが好きで」
「いい香り、それでは今日は此方を全部ください」
「へえ、おおきに」
葵は丁寧に花を選り分けると、藁で一纏めにして千鶴に渡した。それから千鶴は、台所のお勝手口に葵を招き入れて、水菓子とお茶を出した。
「おおきに」
葵は嬉しそうにお茶を飲んで一息ついた。その間に千鶴は井戸で汲みたての冷たい水を葵の竹水筒に入れて渡した。
「おおきに」
「これ、綺麗ですね」
千鶴は葵の水筒に結びつけてある、紅い根付を見て言った。
「へえ、此れ水引です。ウチら冬の間、此れを作って売っています」
「綺麗な細工ですね」
葵は水筒を受け取ると、腰の荷物入れから、水引細工を数個取り出した。
「今日は、こんなけしか持ってまへん。よろしければ」
葵は水色のあわじ結び、藍の重ねあわじ、桃色の梅の形をした水引細工を千鶴に差し出した。
「まあ、綺麗。良いんですか?」
「へえ」葵は微笑む。
「ありがとうございます。大切にします」
千鶴は嬉しそうに、掌の上の水引を眺めた。
「これ、君菊様からです」
葵は、菊の花に結びつけた文を千鶴に渡した。
「ありがとうございます」
「私も、君菊さんに文があって。託けてもよろしいですか?」
「へえ」
葵は、千鶴が袂から出した文を預かった。
「確かに仰せ付かりました。此れから島原に立ち寄ります」
葵は立ち上がりかけて、思い出した様に振り返った。
「雪村さま、もし屯所の外への御用聞きが必要なら、うちがいつでも」
そう言って、葵は袂から黒い藁紐を取り出すと、水引細工を先に通して輪を作った。
「御用のある時は此れを屯所の御門の軒先にぶら下げて下さい。私は洛中に居る間、必ず雪村さまの元へ参ります」
千鶴は、葵の突然の提案に少し驚いた表情をしていたが、嬉しそうに笑って、はいと応えた。
「秘密のやり取りみたいですね」
千鶴は、葵から印の根付を受け取ると、口元に両手をあてながら、クスクスと笑い出した。
「そうどすな」
葵も釣られて、クスクスと笑った。
「なんでも、言うておくれやす。文の託け以外の事も。何でも構いまへん」
「お気遣いありがとうございます」
千鶴は丁寧にお辞儀をして御礼を言った。葵が帰った後、君菊からの文を開いた。
千鶴様
先日の夕涼み、楽しゅう御座いました。
今月、新選組の皆さまのご宴席に喚ばれて 居ります。
雪村さまがいらっしゃるのを楽しみにしています。
菊
君菊とは、島原での宴会以来、小原女の葵を介して時折文のやり取りをして居る。千鶴は少し前に君菊と夕涼みに出かけた夜を思い返した。
****
鴨川での夕涼み
八月の終わりに、鴨川へ夕涼みに出掛けようと左之助達に誘われ、千鶴は夕方から屯所を出た。茶屋で女の着物に着替えたければ手配すると、突然左之助達に言われて、千鶴は慌てたが、鴨川沿いの茶屋には既に君菊が女物の浴衣と桐下駄、髪結いを用意して待っていた。
あれよあれよという内に、奥座敷で千鶴は白地に撫子をあしらった娘らしい浴衣を着せられ、髪もすっきりと島田髷に結い上げて、朱色の櫛と飾り簪で飾られた。後に君菊は千鶴を自分の前に座らせて、小指でそっと紅を千鶴の下唇に差した。
「はい、此れで仕上がりました。ほんに可愛いらしい」
微笑む君菊を前に、千鶴は嬉しい気持ちで一杯になった。島田に結うのは、数年ぶり。襟足は大丈夫だろうか。千鶴は、はにかみながら、そっと頸に手をやった。
「襟足もお首もお綺麗どす。さ、行きますえ」
君菊は千鶴の手を引いて、奥座敷から出た。すると、それまで騒いでいた部屋が静まり返った。
「ち、千鶴かよ」
平助が腰を抜かした様に茫然とした。
「馬鹿、千鶴ちゃんに決まってんだろ」
そう言って、新八は嬉しそうに破顔した。
「綺麗だぜ、千鶴」
左之助が満足そうに笑いかけた。
「か、可愛いよ、千鶴。すっげー可愛い」
平助は頰を赤らめながら、大声ではしゃぎ出した。
「うん、ありがとう、平助くん」
千鶴は恥ずかしそうに畳を見ながら、お礼を言った。
「じゃあ行くか。表で軽鴨達も待っているし、別嬪連れて夕涼みに繰り出そう」
そう言って、団扇をばたばたと扇ぎながら、新八を先頭に茶屋の座敷から皆で外に出た。鴨川の河岸を皆でゆっくり歩いた。両岸には提灯が飾られ、水面に映った様子は、日暮れとともにキラキラと輝いて美しかった。
「千鶴、足元気をつけろよ。なんなら、俺が手を引いてやろうか」
左之助が振り返って手を差し出した。
「なんだよ、左之さん。千鶴の手はオレが引くよ」
平助が怒って、左之助の手を払いのけた。
「ありがとう、いつも履いて居る草履と変わらないから、大丈夫だよ」
千鶴は笑顔で答えた。千鶴の後ろを軽鴨達が神妙な表情で歩いて居る。左之助が振り返って声をかけた。
「相馬、野村、なんだ、二人してしゃっちょこばって、腹でも壊したか?」
相馬達は無言で首を横に振っている。千鶴が立ち止まって、心配そうに二人の事を覗き込んだ。その瞬間、軽鴨達は直立不動になって固まった。
「なんだよ、お前ら。蛇に睨まれた蛙みてえに。こんな別嬪さんに見つめられたら、天に昇るようになるのが道理だろ」
「……」
「昇っています」
相馬達が声を揃えてそう言うと。千鶴はクスクスと笑い出した。
「可笑しな奴等だな、まったく」
左之助は苦笑いしながら、また歩き出した。
「日中は茹だる様に暑いが、川沿いは吹く風が気持ちいいぜ」
新八は上機嫌で歩いている。
「随分あると思っとったら、ほんに直どすな。あれが松原橋。彼処で一旦、お座敷に上がりましょ」
君菊は左之助達を促して土手に上がると、通りに向かい二軒目に用意した茶屋に上がった。其処は二階の座敷から鴨川を見下ろせるようになっていて、河風が通る気持ちのいい造りになっていた。千鶴は、席に着くと、用意されたお酒の酌をして周った。皆が上機嫌だった。
「家茂公が亡くなったって聞いてから、なんか気分が滅入っちまってよ。何やっても気が晴れねえが、今日はいいゆんべだ。有難うよ、千鶴ちゃん」
新八は笑いながら、千鶴の酌を受けた。
「ここんとこ、三条大橋で立札の見張りばっかり。いくら京都守護職のお言付けでも、退屈過ぎて嫌になる」
平助が団扇を扇ぎながら、一気に杯を空けた。
「伊東さんが、立派な隊務です事。精々頑張りなさい、だってよ」新八が伊東の口真似をして溜息をついた。
「何処までも嫌味な奴だぜ。それはそうと、斎藤は今日も講義でてんだろ?」
左之助は千鶴に向かって尋ねた。
「はい、明日の講義が急に取りやめになったので、代わりに夕方から始まるって」
「なんか、はじめくん。水戸派に熱心なんだよな」
「あいつは余り話さねえから、何考えてんのか分かんねえけどよ。まさか勤皇攘夷を唱え出したりしねえよな」
新八が訝しそうな表情で杯を空けた。
「千鶴は、斎藤から何か聞いてねえか」
左之助が千鶴に訊ねた。
「千鶴、はじめくんといつも何を話してんの?」
「何も特別な事は。普通です」
「普通って?」
「はい、今日の沢庵は美味しかったとか」
「沢庵」と平助が呟いた。
「はい、近清さんが新物の沢庵を納めて下さって。昨日はお昼までかかって、井上さんと細かく刻んでいたんです。でも偶にはお膳に出すときに、切り方を変えてと思って。幹部さんのお膳に奈良漬けは薄切り、沢庵は短冊に切ってお出ししたら、白米には此れが合う、旨いと仰って」
「副長は、京に来て一番美味い食べ物だと言っておられるのが近清の本干沢庵だ。江戸に隊士募集で戻る時に、樽で多摩に持ち帰りたいと言われた。伊東さんが荷物が臭うのを嫌がって、渋々諦められた、って教えて下さって」
千鶴は楽しそうに笑顔で話す。
「斎藤が、そんなに話すの?」
「はい、いつも色々な事を教えて下さいます。屯所中で一番達筆なのは、おそらく総司だろう。伊東さんも美しい手跡だが、総司の本気で書いた草書には敵うまい。総司の姉君は、大層総司を厳しく躾けられたようだ。手習いも齢六つで楷書、草書、行書の読み書きが出来た。総司は自分でも大した神童だったと言っている。そうだったのだろうと俺も思う、って昨日も沖田さんの短冊を見て仰って」
「へえ、あの斎藤が」
新八が感心しながら呟いた。
「はじめくんって、俺らが十訊いたとして、一言返すぐらいだよ」
「あいつが長々話すのは、隊務報告ぐらいだよ」
「そうそう。あの時は話すんだよ。澱みねえの、口調が」
「斎藤は無駄口をきかないってだけだ。肝心の話はちゃんとする奴だぜ」
千鶴は、そう言う左之助に向かって、首を縦に振って頷いていた。
「総司と居る時も結構話し込んでるよな」
「彼奴ら、江戸に居る時もなんだかんだ連んでたからな」
「そうそう、最初は互いに討ってやるって凄んでたくせに。暫くして馴染んだら一緒に土方さんの喧嘩に加勢しに走ったりさ」
「おお、多摩で真庭念流の道場の田崎とやり合った時か」
「俺も新八も出稽古で伝馬に行ってたから後で聞いたんだ」
「ああ、土方さんが国府村で果たし合いするって出掛けて。田崎達は大群で待ち伏せしてた。そんで一旦、戻って総司に加勢しろって、そしたら、先にはじめくんが木刀持って走り出してたって」
「聞いた聞いた。御馬街道の為当巴の手前のつづら折れになってる道で、相手に見つからないように、葦の林の中を這いつくばって向かったって」
「総司が言ってたぜ。陽も暮れて来てるのに、なかなか土方さんが出て行かないから、総司は先回りして森村側の田圃の中に膝まで浸かって夜まで潜んだってな」
「そうそう、もうあれ五月の終わりで、田圃も水が引いてあって、蛙が大勢で押し掛けて来てさ、ゲコゲコ御念仏みたいに煩かったって」
平助が笑いながら話すのを、千鶴も声をたてて笑って聞いて居る。
「田崎の奴、槍使いまで連れて来て、真剣も持ってたって。土方さんの作戦だと、為当巴の大木を背中に三人ずつやれば勝てるって。でも、結局、総司が田圃から奇襲かけて一気に五人倒して、はじめくんが街道で背後から六人やって。土方さんは、槍使いと田崎を倒した。でも最後に残った二人が仲間を呼びに走ったから、一気に三人で田圃に飛び込んで上佐脇巴まで突っ切って朝までかかって石田村まで帰ったって」
「あれだろ、途中土方さんの女の家の井戸借りて泥落とししたって」
「そうそう、そしたらはじめくんの懐から、でっけえ蛙が急に飛び出て来て。土方さんの股座に張り付いて。土方さん、褌振り回して大声上げたって」
新八も平助も畳を叩いて大笑いした。
「はじめくんも総司も、耳の中まで泥が入ってて。風呂沸かして入ろうって事に。裸になったら、二人とも脇腹や股座にこーんなでっけえ蛭が一杯くっついてて」
平助が指で二寸以上もあって、っと説明した、千鶴は驚愕の表情で口元を手で覆って震え出した。
「流石の総司も自分のあそこ見て卒倒しそうになったんだって。はじめくんは待っていろって、褌締め直して、短刀を持って戻って来て」
「取ってやる、じっとしてろ、って短刀構えて。今度は総司が褌振り回して大声上げて」
「嫌だ、はじめくんに玉を斬られる。死ぬー、って」
新八と平助は畳の上で転がって笑って居た。
「そんで、どうしたんだっけ。何度聞いても笑えるぜ、あー、腹痛え」
新八は、ひーひー声を上げて笑って居る。
「結局、源さんが火のついた炭持って来て、一匹ずつ焼き殺して剥がしたってさ。短刀で切り取ると、皮も一緒に剥がれちまうから玉が血だらけになるってえの」
千鶴と君菊は身慄いしながら話を聞いて居た。
「斎藤は侍だな。あいつは刀で何でもケリをつける」
左之助が笑いながら。
「土方さんには蛭はついてなかったのかよ?」
と訊ねた。
「ついてなかったんだってさ。股に大蛙貼り付けてたからじゃねーの」
平助は鼻の下を擦りながら笑った。
「其れにしても、あの人の喧嘩剣術は未だに変わんねえな。打合いの機転は多摩に居た頃に培われたんだろうよ」
土方や斎藤の多摩時代の話で大いに盛り上がっている内に夜も更けて行った。茶屋の使いが君菊に文を持って来た。君菊は文を読んだ後に、左之助に文を渡した。
「土方さんからどす」
「今晩は千鶴様を島原でお預かりします。明日、髷を解いて御着替えを済ませてから屯所にお連れします」
千鶴は驚いた顔をして左之助達を見た。
「土方さんが、斎藤を千鶴の護衛に向かわせたって。俺らはこのまま屯所に門限までに戻れるようにだと」
左之助が文に目を通しながら、皆に伝えた。
「相馬と野村にも戻るようにって書いてある。斎藤と交代だ」
軽鴨達は頷いた。君菊は、夕涼みに出る時に屯所の土方に文を送っていた。折角島田に結った千鶴を直ぐに髷を解かせるのは酷。休養も兼ねて千鶴に一晩島原で女の身仕舞いのままゆっくりして貰いたいと。土方は斎藤を護衛に付ける事を条件に承諾した。
廊下で新選組の斎藤様がお見えになりましたと茶屋の女将が斎藤を連れて座敷に上がって来た。座敷に入った斎藤は、窓の傍に座っている浴衣姿の千鶴に息を呑んだ。
(ゆ、雪村、雪村なのだな)
斎藤に微笑みかける千鶴に、斎藤は言葉も出て来ず、じっと立ち尽くしていた。
「なんだ、斎藤。千鶴に見惚れて固まっちまったか」
左之助が冷やかすように笑いかけた。左之助が声を掛けても、斎藤は耳に入っていない様子で身動きせずに千鶴を見詰めて居た。
「昇天しちまったか。此れだけ別嬪だとそうなっちまうよな」
新八は団扇を扇ぎながら、笑って二人を眺めている。
「さ、其れではここいらで御開きに。皆様、今宵は楽しゅう御座いました。おおきに」
君菊が畳に手をついて丁寧に御礼を行った。
「ああ、俺らも楽しかった。君菊さん色々と有難うよ。千鶴を今夜は宜しく頼む」
「島原まで籠を頼んである。千鶴、気を付けてな」
千鶴と君菊を其々載せた輪違屋の駕籠に、斎藤が付き添って河原町通りを下っていったのを見送ると、左之助達は酔い覚ましがてら、大廻りして帰ろうと四条通りに向かった。
「いいよなあ、はじめくん」
平助が振り返りながら呟く。
「なんだ、平助。千鶴に付いて行きたかったか」
左之助が振り返りながら笑った。
「うん、千鶴嬉しそうだったよなあ」
「もっと早くにさせてやれば良かった」
左之助が前を向きながら行灯を持ち替えた。
「屯所を移ってからは、俺らも茶屋遊びに出る事も殆ど無かったからな。千鶴ちゃんが夕方から外に出掛けるって事もずっとなかった」
新八が団扇を扇ぎながら、左之助に頷いた。
「可愛かったよなあ、千鶴」
「おお、君菊も綺麗だった。別嬪連れての夕涼みってのがいい」
「今日の事は、最初に君菊が土方さんに千鶴を招きたいって言って来たらしい」
「へえ、何でまた」
「土方さんと君菊は旧い馴染みだ。近藤さんとこのおわかさんと君菊は仕込みの頃から一緒の置屋に居たんだってよ」
「深雪太夫は、輪違屋に居たのか」
「いや、三本木だ。君菊は、舞妓になった時に輪違屋に移ったそうだ」
「そんで、なんだって君菊が千鶴ちゃん誘うんだ」
「前に綱道さんが祇園や島原に出入りしてるって情報があったろ。あれは君菊が芸妓仲間から聞いた情報だって報せて来たらしい」
「監察方に調べさせたが、結局見つからないままだったんだけどな」
「千鶴の事情を聞いた君菊は、それ以来、千鶴の事を気に掛けて、置屋に時々呼んでいる」
「そうか、それで今日も羽伸ばしさせてんだな」
「ああ、土方さんの労いもある」
「屯所移ってから、千鶴は朝から晩まで働き通しだったもんな」
「山崎の代わりに、平隊士の病気や怪我の面倒まで診てるもんな。最近はずっと屯所に籠りっきりだ」
「千鶴ちゃんが、屯所に来て、もう何年だ」
新八は、団扇を持ってない方の手で指を折って数えている。
「もう、そろそろ丸三年だ」
「そんなに経つか。そうだな、井吹と入れ違いに屯所に暮らす様になったもんな」
「娘らしくもなったしな」
「おお、今日の浴衣姿はいい女っぷりだった」
「普段も可愛い顔しているけど、なんて言うか。こう、浴衣の帯がこうあって」
新八が団扇を持ちながら、両手で千鶴の浴衣姿を宙に描くと、
「何だよ、新八っつあん。いやらしい事言うなよ」
平助が声を荒げた。
「ああ、だがよ。普段とああも違うと、驚くぜ」
「総司が、千鶴は真夏でも晒し巻いてるってさ」
口を尖らせて不機嫌そうに平助が呟いた。
「男の格好も大変だな」
「汗疹が出来るから、晒し取っちゃえばって、総司が千鶴の身八つ口に手を入れたら、すっげー堅く締め付けてあったって」
「総司は、何やってんだ」
左之助が呆れた。
「斎藤がそれ知ったら、斬られるぞ」
「斬られたよ。知らないの? ぱっつあん達は居なかったかあ」
「千鶴が、総司の布団を干してる時に、総司が背後から本当に取ろうとしたらしくて」
「千鶴の悲鳴聞いたはじめくんが、血相変えて飛んで来て、刀抜いたんだよ」
「本当かよ」
「オレが見たときは物干しで、総司が千鶴を後ろから抱えて、こんな風に盾にしてた」
平助が左腕で人を抱え込む様に構えた。
「おお、それで」
「そしたら、はじめくん、本気で突き始めて。総司の眉間に一寸の所で止めて、そのまま雪村を離せって凄んだよ、すっげーおっかねえ顔して」
「離された千鶴は、最初へたり込んでたけど。オレと一緒に直ぐにはじめくんを必死で止めて、総司は事無きを得たんだけどさ」
「おお、それで」
「総司は、晒し巻いてると暑いだろうから、取ってやろうとしただけだ。何なら、はじめくんが取ってあげればって」
「そしたら、はじめくんも千鶴も茹で蛸みたいに真っ赤になってさ」
「総司はあの調子だよ。そんなに堅く締め付けたら、折角のものが育たないでしょ。はじめくんも柔らかい方がいいってさ、ね、はじめくんって、からかった」
「ま、言い終わらない内に、はじめくん物凄い勢いで総司に襲いかかってって。総司は逃げ回って華池の向こう側まで走ってって。そのまま取っ組み合いになってさ。もう二人とも苔だらけで、無茶苦茶。本願寺の坊さんまで出てきて血相変えて止めに入ってさ」
華池は、広斉和尚が大層大事にしている。隊士にも清掃以外の用では近づかぬという新選組と本願寺の取り決めがあった。
「それで、どうなったんだ」
「そりゃあ、御咎めだよ。土方さんが、本願寺に謝りに行って。夏の間、本堂を平隊士の寝所にしたいって願い出てたのも、取り下げになったもんだから、土方さんもお冠で、大変だった」
「そんな事があったのかよ」
「そうなんだよ。千鶴も責任感じちゃってさ、それ以来ずっと毎日独りで華池の周り掃き掃除してんだ」
「そりゃあ、千鶴ちゃん災難だったなあ」
「総司も悪いけど。男の格好させてる事が発端だからさ。俺、ほんと千鶴が不憫でならねえよ」
「あんな、可愛いのにさ……」
「そうだな、今日みたいな格好は、本当なら毎日してて当然だ。何も特別な事もねえのにな」
新八が神妙な表情で団扇を扇ぎ続けている。
「ま、今夜はあの格好のままゆっくり出来るだろうよ」
「はじめくんも、輪違屋に上がるの?」
「そうじゃねえか」
「ええーーー、ズルイよー。オレも一緒に行きたかった」
「そいつは、野暮ってもんだ」
「何でだよ、左之さん」
平助は不満そうに口を尖らせている。
「何でもねえよ。今夜千鶴は、俺らの世話から解放されて、置屋の客間にでも招かれてるだろうよ」
「何、客間って。それって茶屋の座敷とは違うの?」
「ああ、輪違屋は座敷と置屋は棟が違う。置屋の客間は、芸妓が自分で人を持て成す場所だ。座敷ほど華やかじゃあねえが、湯殿も設えてあって、芸妓の趣味で部屋が造ってある。君菊ぐらいの芸妓だと、いい客間のひとつ持っていてもおかしくねえ」
「なんだよ、左之。やけに詳しいじゃねえか。お前、泊まった事あんのかよ」
「ああ、祇園でな。前に馴染みの太夫に引き留められて。俺は、偵察も兼ねてたからあと一晩張ってもいいかと思って」
「何だよ、それ。俺は聞いてなかったぞ。いつの話だ」
「池田屋の前だよ。うんと前の話だ」
「それで、客間はどうだった?」
「いいもんだったぜ。座敷より落ち着く感じで。広い湯船で足も伸ばせて気持ちよかった」
「風呂まで浸かって。豪勢じゃねえか。俺も行ってみてえ」
「太夫の普段の生活の様子が解る。調度品や身の回りの物も目に入るから、座敷で会う時とは違った女に感じて、いいもんだと思った」
「くあー、何言ってやがんだ、畜生。何で、お前はいつもそう女にモテんだよ。太夫に引き留められて、そんな客間で風呂まで浸かって。俺も連れて行けよ、この野郎」
新八が左之助に肘鉄をして、大声で絡んだ。
「はじめくん、千鶴と客間に泊まるのか
平助が呟いた。それまで笑っていた左之助が、平助の寂しそうな表情に気づいた。
「さあな。君菊は一番千鶴が落ち着いてゆっくり出来るように、もてなすだろうよ。斎藤は護衛に付いている。しっかり千鶴の事を守ってるから心配ねえよ」
左之助は、平助の背中から腕を回して肩に手を掛け、平助の頭をグシャグシャと撫でた。四条大通りから、ゆっくりと歩いた左之助達が屯所に着いたのは、門限もとうに過ぎた夜中近くだった。左之助は、草履を脱ぐと、部屋に向かわずに直接土方の部屋に向かった。土方は、文机に向かって書き物をしていた。
「土方さん、遅くに悪い」
「原田か」
「今戻った。門限過ぎちまって、すまねえ」
「構わねえよ。今日は、非番みたいなもんだ。みんな無事か」
「ああ、和泉町の茶屋で君菊達を斎藤に預けて帰って来た。四条周辺は人出が多い。宿は何処も満室みたいだ」
「そうか、また西国からの出入りが増えてるみてえだな。それで、夕涼みはどうだった」
「千鶴が嬉しそうにしてたぜ。見違える様に綺麗になって、軽鴨達が舞い上がっちまって」
「お前らも羽根が伸ばせたみてえだな」
「ああ、有難うよ。此れで明日からも制札見張りを頑張れる」
「そうか、そいつは良かった」
「……、なあ、土方さん」
土方は、文机の書類から顔をあげた。
「斎藤を千鶴と茶屋に泊まらせて大丈夫かよ」
「何だ、急に」
「斎藤の羽伸ばしなら、俺らと一緒に鴨川へ行かせるのが普通じゃねえか」
「なんだ、普通って」
「俺たちと一緒に座敷で呑んだり食ったりする事だよ」
「千鶴をひとりで島原に預ける訳にも行かねえだろ」
「ま、そうだけど。あの女っぷりの上がった千鶴と茶屋で二人きりは、俺は正直まずいと思った」
「平助が不貞腐れて、宥めるのに苦労した」
左之助が苦笑いをして胡座をかいた。
「斎藤は、たとえ、茶屋の寝間に千鶴と二人っきりにされても、手出しはしねえよ」
土方は振り返ると、腕組みをして笑った。
「これが、お前となら、話は別だ」
「斎藤は、朴念仁な上に。千鶴を護る事に命を懸けて居やがる」
「だな。本人達は自覚もねえみたいだ」
左之助は、土方に頷きながら笑った。
「なあ、原田。俺の勝手な考えなんだが」
「千鶴は、綱道さんや、ひと通りの事が落ち着いたら。斎藤と一緒にしてやりてえと思っている」
「そう遠くねえ将来にな。其れ迄は、千鶴はガキの儘で居て欲しい」
左之助は、一瞬眉毛を上げて驚いた表情をしたが微笑んだ。
「だな。千鶴は平助が想い慕ってる事に気づいてもいねえ。確かにまだガキなのかもな」
「でもよ、土方さん」
「今夜の千鶴は本当に綺麗だった。あれ見ておかしくならねえ男はいねえよ」
左之助は、そう言うと立ち上がって土方の部屋をあとにした。
部屋に戻ろうとすると、表階段に新八と平助が酒瓶を抱えて、晩酌している姿が見えた。傍には、軽鴨達も座り、二人とも泥酔している様子だった。
「……っとに、可愛かったよなあ」
平助が、杯を空けながら、呟く。
「……ああ、別嬪と酒があると、俺は何も要らねえ……」
酒瓶を抱えながら、半分寝惚けている様に新八は笑っていた。
「……はじめくん、……一緒かぁ……」
ぐでんぐでんになりながら、平助がまだ飲み続けている。左之助は、仕方がないなと思いながら階段に座り朝方まで平助に付き合った。涼しい夜風が時々吹いて、気持ちのいい夜だった。青く光る満月。左之助は両手を階段の後ろについて夜空を見上げた。
「本当に綺麗だったな」
と改めて千鶴の姿を思い出して呟いた。
******
輪違屋にて
和泉町の茶屋で左之助たちと別れた斎藤は千鶴達を乗せた籠を護衛しながら島原の輪違屋に向かった。普段君菊はこの置屋で生活をしている。千鶴と斎藤はお茶屋の御座敷に通された。斎藤は千鶴の正面に座ったが、千鶴の美しい佇まいを直視出来ず。正座した膝に両手を置いたまま俯いていた。
「斎藤さん、護衛に来て頂いて有難う御座います」
「……今日は四条まで歩いたのか」
「はい、鴨川沿いに松原橋まで」
「川辺は涼しくて、鴨川が綺麗でした」
「御座敷で、皆さんのお話が面白くて。あっと言う間に時間が経ちました」
障子が開いて、お茶屋の女将がお酒の載ったお膳を用意した。その後に、君菊がやって来た。
「今晩は遅うなりました故。 斎藤様、軽く御酒を召し上がって、ゆっくり此方でお休み下さい」
「千鶴様は置家の客間で御休みいただきます。明日の朝、御支度をして此方へお連れ致します」
そう言って、君菊は斎藤にお酌をした。斎藤は、団扇で斎藤をゆっくりと扇ぐ千鶴に目をやると、その可愛さに圧倒されて、また落ち着かぬ気分になった。
ぐいぐいと杯を続けて空けた。酒が回ると、漸く落ち着いた心持で千鶴を直視出来るようになった。普段は前髪を下ろして隠れていた額は愛らしく、長い睫毛に縁取られた大きな瞳が一際印象的だ。髪を結いあげるだけで、こんなにも変わるのか。花柄の浴衣が似合っている。可愛いい、可愛すぎる。
気がつくと、千鶴はお銚子を手に取って、斎藤の御猪口に酒を注ごうとしていた。目の前の千鶴は伏せた瞳に掛かる睫毛の影とほんのりと紅い唇が美しく、斎藤は心の臓の下辺りが、きゅーっと締め付けられる様な、其れでいて自分の身がふわりと腹から浮き上がる様な感覚が走った。
おかしい、俺は一体どうしたというのだ。
何時もの酒に酔う感覚とは全く違う、自分の異変にひたすら驚いていた。
其処へ、障子の向こうから君菊のお付きが客間の準備が出来たと報せにやって来た。君菊は千鶴を促すと、斎藤に御暇の挨拶をした。千鶴は障子の向こうへ座ると、御休みなさいと挨拶をして障子を閉めようとした。斎藤は、自分でも気づかぬ内に立ち上がり、障子に向かって歩いていた。月明かりに逆光になった千鶴の輪郭、美しい首筋と貝殻の様な小さな耳朶がぼーっと青白い光に浮かび上がった。
「綺麗だ」
そっと呟いた一言に、千鶴は振り返って、明かり取りの窓の向こうに見える月を眺めて、
「本当に。今夜は美しい満月です」
と言って微笑むと、一礼して廊下の向こうに下がって行った。斎藤は、暫く千鶴の消えた廊下を眺めた後に、部屋に戻って残りの酒を飲み終えると、用意された床に入って朝まで眠った。
翌朝、千鶴は湯殿で髷を解いて髪を洗った。君菊の御付きの少女が千鶴の身支度を整えた。斎藤は、何時もの袴姿で現れた千鶴と座敷に用意された朝餉を一緒に食べた。君菊は、千鶴にまたいつでも、遊びに顔を出しておくれやすと頼むと、玄関まで斎藤と千鶴を送って行った。朝日の中を西本願寺に向かってゆっくり歩きながら、千鶴は女の格好を出来たのが嬉しかった、久し振りにゆっくりと出来て楽しかったと斎藤に礼を言った。
斎藤は千鶴の浴衣姿を思い出し、また鳩尾辺りがふわりと浮き立つ感覚が走った。隣の千鶴は、微笑したまま真っ直ぐ前を向いている。何時もの雪村だ。落ち着け。
「よく」
「よく似合って居た」
斎藤が呟くように言った一言を聞いて、千鶴は一瞬驚いたような表情をした後、溢れる様な笑顔を見せた。斎藤は、自分の頰が熱いのに気をとられ、真っ直ぐ前を向き続けた。
「俺も良い息抜きが出来た。屯所に戻ったら副長に礼を言いに行こう」
頬が赤らんだ斎藤の横顔を眺めながら、千鶴は「はい」と返事をした。
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千鶴は、君菊の手紙を畳むと、懐に仕舞って。葵から一緒に貰った菊の花と水引の根付を手に持って広間に向かった。床の間に花を活けた後に、自室に戻り、菊の花を一輪挿しに挿して文机に飾った。
島原の宴会は、半年振りに西国視察から戻られた山崎さんを労うもの。千鶴は、墨を摩ると君菊に返信をしたためた。
君菊様
宴会に行けるかは定かではありませんが
今月終わりの非番に島原に出向く幹部さんに付いて
其方に伺いたいと思っております
残暑が厳しい折呉々も御自愛下さい
千鶴
千鶴は文を畳むと、葵から貰った水引の根付紐と一緒に文箱に大切に仕舞った。
つづく