大股開き その2
文久二年六月
六月に入ると、近藤先生から日野の佐藤道場に出稽古に出るように言われた。
多摩では十日ほどの泊まり稽古になる。家の者に十日ほど留守にすると伝えた。御家人とはいえ、実家はさして裕福でもなく、次男である自分は穀潰し。試衛館に通うようになってからは、自分の食い扶持はぎりぎり賄えているが、この先もずっと家に居座るのか。そんな態度を取る親兄弟の視線は冷たかった。八歳上の兄、廣明は父と同じ鈴木家の御家人として仕えているが、やっと今年から公用廻りにつけた。兄上は幼少より大人しく、剣術より和算を得意としていた。やんちゃで腕白だった自分とは違い、実直で家の長たる責任を持って生きていた。自分とは似ても似つかぬ。だが自分には剣術があった。父親からは、剣術で身を立てられるよう励まされた。
精進さえすれば、いつか部屋住みに。
だがそれもただの叶わぬ望みだと思い知らされた。元服して間もなく、唯一の剣の師が病で他界した。門弟は年老いた浪人、そのほかは自分だけだった。道場を継ぐものは誰もおらず、そのまま閉鎖されることになった。その後一年の間、剣術の練習の場を探し求めたが、どこも門前払い。鈴木家からも声が掛かる事はなく、どこにも出仕のあてのない鬱屈した日々。
だが漸く、今年の春から試衛館で修行が出来るようになった。出稽古に遠出する事は、そんな実家から離れられる気楽さもあった。試衛館に昼過ぎに向かい、稽古後にそのまま泊まり、翌朝早くに総司と日野へ出立する。そういう予定だった。
「じゃ、はじめくん。明後日の稽古には、褌三日分持って。旅装束で来て
総司は試衛館の門まで見送りに出て来た時にそう言った。翌日は旅支度をして道場に向かった。
多摩へ向かう朝、まだ暗い内に起きて道場を後にした。日野の佐藤道場へは、二日がかりで向かう。夏の間は土方さんはずっと多摩に居る。土方さんの実家は石田村にある豪農で、古くから石田散薬を作って売っている。土方さんも薬の行商をやりながら、道場で稽古をつけていた。夏場は、その散薬の原料の薬草の収穫時期で、土方さんは大層忙しくしているらしい。
「駆り出されるよ。どうせ僕らも、薬草摘みにね」
総司はうんざりとした表情で隣を歩いている。道場を出て、緩い下り坂をずっと行くと合羽坂の下に着いた。通りを渡って、荒木横町に向かって今度は上り坂。ここらは美濃国高須藩の松平摂津守の上屋敷があった。この津の守坂は急な坂だが、登りきると四谷大通に出た。これが街道。平坦で大きな通りは視界も広がり歩いていて気分がよかった。道場を発って四半刻。足早に歩く総司と、大木戸を過ぎて内藤新宿に辿りついた。
ここは宿場町で昼間は賑やかだが、まだ朝日が上がったばかりの時間は、夜半から開いている岡場所に行灯が灯っているだけで閑散としていた。道に時々歩きでているのは、鶏ぐらいなもの。足早に歩き抜けてすぐに追分に着いた。
生まれてから西方面へは、せいぜい此の追分ぐらい迄しか行ったことがなかった。遠出は自宅から南方向に東海道、品川宿を過ぎた辺りまで。芝の浜や品川で海を眺めるのが好きだった。
追分を過ぎると、街道の両側は田畑だけになった。時折建屋が見えるが、どれも百姓小屋だった。街道をどんどん西に向かって歩いて行った。陽が昇って明るくなってきた。総司は欠伸をしながら、寝る前にこさえた握り飯があるからと言って、道端の丁度良い石に二人で腰掛けて握り飯を頬張った。日野の道場まで八里。総司は親戚が日野に住んでいることもあり、小さい頃から馴染みの土地柄だという。斎藤は生まれも育ちも本郷。多摩には縁がなかった。田圃ばかりで、人より蛙の数のほうが多い。そう言って、総司は笑う。
道中、総司はいろいろな話をした。総司の生まれは江戸の白河藩下屋敷。御徒身分の親とは小さい頃に死に別れて。唯一の肉親は、十歳上の姉のみ。その姉のみつが婿をとって家督を継いだ。僕は次男で家がない。そう言って笑った。総司と自分は似たような境遇だと思った。
「試衛館は貧乏道場だけど、日野の名主の佐藤彦五郎さんが本陣の庭に道場をこさえてね。随分援助してもらってる。今日も彦五郎さんに会うよ」
「あとさ、出稽古だけじゃなくてね。土方さんの実家にも連れて行かれるからさ。それも覚悟しておいて」
土方さんの実家は日野の豪農で、この時期は薬草摘みに駆り出される。これが重労働。僕は大嫌いなんだけど。いい小遣いになるから、毎年行ってるけどさ。
「石田散薬。知ってる、はじめくん?」
そう訊ねられたが、「寡聞にして知らん。それは何か」と訊くと、打ち身に効く万能薬だと説明された。
「眉唾ものだけどね」
総司はそう言って笑う。総司は薬のたぐいは小さい時から大嫌いで、姉上には、金平糖と引き替えじゃないと薬は飲まないと言ってある、といって笑った。姉上は必ず、薬と一緒に僕に金平糖を口に放り込んでくれる。
「薬より高いのにね。金平糖を工面してきてくれるんだ」
総司は、姉の話を嬉しそうに話す。自分にも姉がいるが、確かに優しい。唯一、自分の事を気に掛けてくれるのは、二つ年上の姉上だけ。自分もそんな風に思っていた。総司は、月に一度、姉が道場に訪ねてくるのが楽しみだという。総司の身の廻りや道場、母屋の掃除など、一通り世話をして帰るらしい。
ひとかどの武士になるように励みなさいってね。
僕ならきっと立派な武士になるって。
そう話す総司は嬉しそうだった。
総司は、日野まで幼少の頃から何度も行き来していて目を瞑ってでも歩いていけると笑っていた。街道にはところどころに欅や桜の並木があって、総司は木と木の間を駆けて競争しようと勝負を持ち掛けた。自分が返事をする前に、総司は草鞋の紐をさっと掛け直すと、先に走り始めた。総司は足が速い。自分も走ることにかけては遅れるつもりはなかった。勝負に三回負けたら一文を相手に渡す。総司が勝手に決めて、木々が途切れる道にでたところで、三文を要求した。そこに丁度茶屋があって、団子を奢ることになった。総司はちゃっかりしている。
昼過ぎには布田に着く。天然理心流原田道場に立ち寄る。
近藤先生の兄弟子が開いた道場だ。原田先生のところにいる門弟は三人。午後は道場稽古だよ。総司はそう言って、団子を頬張った。
「お姉さん、ところてん二杯。それから醤油つけた餅もだして」
総司にしては沢山食べる。財布の持ち合わせが気になった。総司は、茶店の女主人が運んでくると、気前よくお代を払った。
「道場着いたら、日暮れまで稽古。いっとくけど、道場で振る舞われる夕餉は腹の足しになんないよ。だからここで、しっかり食べておいて」
「原田先生は、僕らが夜道場抜け出してもとやかく言う人じゃないけどね」
「近藤先生にバレると、お小言貰う事になるから」
総司は、出された皿の餅を食べながら湯飲みを片手に遠くを見た。少々満腹を過ぎていたが、街道を急ぎ足や総司との駆けっこを繰り返している内に、苦しい腹も落ち着いた。布田の道場には直ぐに着いた。道場主の原田忠司は上背のある大きな男だった。精悍な体躯で、眉が太く自ら木刀を振って、門人に稽古をつけていた。
一息ついて、道着に着替えて稽古を始めた。皆、本気で打ってくる。楽しい。稽古はずっと仕合形式で進められた。気が付くとすっかり陽が落ちて辺りは暗くなり始めていた。井戸端で汗を流した後に夕餉の膳が並んだお勝手の板の間に通された。ひえ、粟が混ざった飯は食べ慣れているが、ほとんど麦飯で、申し訳ないぐらいの量の昆布の佃煮と漬物がついていた。出された御櫃には殆ど飯が残っていなかった。一緒に席を並べている門人はもっと少なくよそったものを黙々と食べていた。総司の言う通りだった。昼に餅を食っておいてよかった。翌朝早く出立すると道場主に挨拶をして、総司と一緒に早めに客間の布団で横になった。
翌朝、日の出と共に道場を出て、府中に向かった。街道沿いの谷保で美味い蕎麦を食べた。総司は普段、あまり食事をとらないが、甲良屋敷を出てから自分と同じぐらいよく食べる。自分がそう云うと、「そう?たぶん、水が合うんじゃない」と笑っている。総司は亡くなった母方の親戚のある日野に幼少の頃より過ごす事が多く、多摩には里帰りする気分だと笑う。義兄もこっちの人だからと聞いて意外に思った。総司は江戸者だと思っていたが、近藤先生や土方さんと同じか。どちらにしろ、総司は楽しそうだった。
府中は大きな宿場町だった。人出も多く賑やかだ。総司は「はじめくん、こっち」と言って、街道から逸れた道をどんどん進み神社に立ち寄った。大國魂神社。大きな鳥居だ。
「ここは、必ず立ち寄るようにしてる。ほら、お詣りするよ」
総司は勝手を知っている。参道を本殿に進みながら、横道にある小さな祠にも手を併せる。巽神社、瀧神社、稲荷神社。自分も総司に従った。境内は人出が多いが、清々しい空気に満ちている。総司は、瀧神社の湧き水を飲めとうるさい。
「これ、力水。道場に着いたらすぐに稽古だからね」
そう言って総司が柄杓に汲み上げてくれた水は、確かに美味しかった。喉が潤う。本殿に参ってから街道に向かった。
「大きい神社でしょ? 姉上がね、必ず立ち寄れって。無病息災を願えって煩くてね。さっきの水も。必ず飲むようにって約束しちゃってるから」
「聞いてる? はじめくん」
「ああ」
「ここは毎年五月にくらやみ祭りがある。知ってる?」
「いや、聞いたことがない」
総司は斎藤の傍に寄ると、手で隠すようにして耳もとで囁いた。
よばい。
夜這いし放題。
自分の驚いた顔を見て、総司は笑った。
「提灯の灯りもない真っ暗闇でね」
「御神輿渡しを真っ暗な中でやる。喧嘩も起きてね、賑やかだよ」
不可解な表情を見せてしまったのだろう。総司は、「なに、はじめくん。夜這い行きたいの」と顔を覗き込んで来た。道行く人にも聞こえているだろう。やめろ。
「なに、赤くなってんのさ」
「やったことないの? まだ」
「なにをだ」
「よ、ば、い」
総司は再び耳元で囁いた。からかわれておる。
「やったことないんなら、やってみる? はじめくん」
「日野には暫くいるんだしさ。ねえ、聞いてる?」
総司は一度言い出したらしつこい。
「俺は、日野には出稽古に来た。近藤先生のお言いつけだ」
「それ以外のことは、するつもりはない」
「あっ、そう」
「でもね、日野に居る間は、剣術以外の事、いろんな事をやらされるよ」
「近藤先生には、彦五郎さんや土方さんの言いつけを守るようにって言われてんだから」
「それはわかっている」
「じゃあさ、土方さんに夜這いに誘われたら行かなきゃね」
急に総司は噴き出すように笑いだした。自分が絶句した顔が余程可笑しかったのか。
「そんな、青くなる事? 誰もとって食おうって訳じゃないんだし」
「逆に、頂いちゃうんだから」
また、総司が耳元で囁く。
「いいでしょ?」
と確認するように顔を覗き込んで、さも可笑しそうに、くっくっくと笑っている。
「ほんと、はじめくんって。赤くなったり、青くなったり、忙しいね」
総司は楽しそうだ。さぞ楽しいのだろう。人をからかいおって。自分はずっとだんまりを決めた。
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佐藤道場
それから府中を出て、数時間で目的地の日野宿本陣に到着した。よしずの壁の向こうが佐藤道場だと知らされた。通りから御影石が敷かれた上を歩いて、道場の入り口に廻った。目の前は立派な玄関構えの本陣屋敷。大きな池があって、外の通りは暑かったが、気持ちのいい風が吹き抜けて行った。
「御免、試衛館道場より参りました」
総司が、大きな声で道場の入り口で挨拶をした。ちょうど稽古の休憩中だったのだろう。道場の奥で床に腰かけていた誰かが振り返って出て来た。
「やあ、いらっしゃい。宗次郎。今着いたのかい?」
笑顔で近づいてきた男は、小柄で人が好さそうだった。男は丁寧に会釈をして自分から名乗った。
「井上源三郎と申す。山口殿であったな。今、道場主の佐藤彦五郎さんは外出中で、夕方まで稽古をしておいて欲しいと頼まれていましてな」
「山口一と申す。宜しくお願いいたす」
深く頭を下げて挨拶した。井上さんの案内で、道場の棚の前で荷物を解いて着替えた。その間、井上さんはお茶の用意をして出してくれた。一息ついて、道場を改めて見回した。立派な檜作り。壁には「一心精進」の書。開け放たれた入り口から反対側の戸口に気持ちのよい風が吹き抜けていた。素振りで身体が温め始めた頃、昼餉をとって来たという門人がぞろぞろと戻ってきた。総勢十名。皆、近隣の農家の者たちだという。総司が、井上さんに「源さん」と声を掛けた。
「今日、土方さんは来るの?」
「ああ、歳さんは、夕方に来ると言っていた」
「今日は、ずっと河原だろう」
「やっぱり? たぶん僕らも明日は河原だね」
「ああ、今が一番の収穫時だからね」
井上さんはそう言って、「僕、ここで稽古してたいよ」とうんざりした顔でいう総司に微笑みかけた。
「宗次郎と山口君は石田村で大歓迎を受けるだろう。今夜はここに泊まるのかい?」
「うん、たぶんね。土方さんもじゃない」
そうかい、そうかい。と井上さんは嬉しそうに笑うと、早速門人に声を掛けて稽古を始めた。総司と手分けをして、五人ずつの組を作って仕合いを行った。陽も傾きかけた頃、道場の入り口から、「おい、総司」と大きな声で呼びかける声が聞こえた。土方さんが仁王立ちで入口に立っている姿が見えた。眉間に皺を寄せて、怒りの表情を見せている。
「今日は、石田村に直接来いって言ってあっただろう」
「昼餉も用意して、お前らが来るのを待ってたんだ。なんで、来ねえんだ」
「僕ら、午後は稽古つけるつもりで来ましたから。ね、はじめくん」
いきなり、話を振られて困った。頷こうにも、土方さんの厳しい視線を見ると、相槌も打てない。
「近藤さんにも、お前らにこっちの手伝いを頼むって許可はとってあるんだ」
「半日でも無駄に出来ねえ時期だ」
「それは、あくまでも、土方さんの都合の話でしょ」
「僕もはじめくんも、近藤先生からは日野に稽古に出るようにって言われてんだから」
という総司を土方さんは黙ったまま思い切り睨みつけていた。そこへ、土方さんの背後から誰かがやってきて声を掛けた。
「歳三、来ているなら、おとくに声をかけてからにしろ。あとで叱られても知らんぞ」
声の主は、佐藤家の主人のようだった。堂々とした様子は、名主らしく、外から戻ったままの羽織姿。総司が自分を手招きして呼ぶので、木刀を置いて入り口に挨拶に向かった。そこで道場主でもあり、日野本陣を預かる寄場名主である佐藤彦五郎さんに紹介された。
「よく来られた。宗次郎と互角にやりおうた御仁だときいておる。是非、手合わせをお願いしたい」
丁寧な様子で自分のような者にも深々と頭を下げた。
「是非、こちらからもお願いします」
と頭を下げるのが精いっぱいだった。
「おい、山口。日野は初めてだったな。今晩はここの母屋に泊まって行ってくれ」
土方さんは笑顔で話す。
「ちょいと、姉貴に挨拶に行ってから直ぐ戻る」
と言って、土方さんは彦五郎さんと一緒に屋敷の玄関に向かって歩いて行った。それから、土方さんが戻るまでの小一時間、仕合の続きをやって稽古を終えた。門人たちは、皆丁寧に挨拶をして帰って行った。総司と一緒に道場の片付けをした後に、持って来た荷物をまとめた。
「今日は、僕もここに泊めてもらえるか訊いてみるよ」
総司が微笑んだ。そうか、総司は親戚の家があると言っていた。この近くなのだろう。
「ここにいる間は、白米を思う存分食べられるよ。ひもじい思いはしないから安心して」
そう耳打ちするように総司は云うと、井上さんに挨拶をして道場を後にした。日野本陣の母屋は立派な造りで、このように大きな式台のある玄関構えの屋敷に足を踏み入れるのは生れて初めての経験だった。土間も自分の弓町の建屋がそっくり入るぐらいの広さがあった。上り口で、この屋敷の女主人である、佐藤とくさんを紹介された。
「俺の姉さんだ」
土方さんが自慢そうに話す隣で、おとくさんは優しそうな表情で微笑んでいた。
「さあさあ、こちらへ。稽古の間は、この控えの間をお使いください」
通された部屋は随分立派な書院づくりの部屋で、綺麗な青畳が敷いてあり廊下から美しい中庭が見えていた。大名部屋のような設えに流石に緊張してきた。でも、総司はそんな自分を構うまでもなく、荷物を土間に放り投げるように置くと、どかっと畳に仰向けになって寝転んだ。
「あー、疲れた」
「朝に布田を出て、着いてすぐに稽古したんだもん」
「何言ってんだ、今日は俺の家に来て、稽古は明日からだった筈だ」
また土方さんは怒り出した。そこへ、おとくさんがお茶を乗せたお盆を持って戻って来た。
「おとくさん、今晩、僕もここへお邪魔していいですか?」
総司はおとくさんが差し出すお茶をうけながら尋ねた。おとくさんは「ええ」と笑っている。「歳三も今夜は泊まっていくのだろうから」と言って、立ち上がった。それから、夕餉の支度が出来るまで風呂に入ってくるように言われた。立派な内風呂に驚いた。甲良屋敷を出てから風呂に入ったのは二日ぶり。気持ちが良かった。風呂から上がると、土方さんが子供と広間で相撲を取って遊んでいた。おとくさんの子供たちで、歳は七つの男の子と五つの女の子。土方さんは本気で子供を相手に遊んでいた。大声で笑い子供をかわいがる姿は、普段江戸で見る土方さんとは違う。身内だけに見せる姿なのやもしれぬ。そう思った。
それから、夕餉の膳が並べられた大広間に呼ばれて、皆で食事を食べた。豪勢なおかずに白米。総司の言う通りだった。お腹いっぱいに食べた後は、彦五郎さんに勧められて、酒も飲んだ。土方さんは「明日も朝から、河原に行かなければならねえから」と言って、総司を促すと玄関に近い控えの間に自分の布団も用意させて、ごろんと横になった。総司と厠へ行ってから部屋に戻ろうとすると、既に広間も片付けられ行灯が消え、家中がひっそりと静まり返っていた。部屋に戻ると、土方さんが起きていた。
「それで、土方さんは。どこへ?」
「ちょいと、やぼ用だ」
「ふうん。それで?」
「姉貴が、俺がどこへ行ったと聞いてきたら。石田村に用を思い出して帰ったとでも言っといてくれ」
「朝までに戻れたら戻ってくる」
状況を見る限り、土方さんはこれから出かけるようだった。少しそわそわとして見える。最後の行灯の灯を吹き消すと、「じゃあな」と暗がりで囁くような声が聞こえた。障子がそっと開く音がして、土方さんは出て行ったようだった。
暗がりの外に虫の声がする。
きりぎりすの声。もう夏だ。そう思った。
「はじめくん、起きてる?」
「ああ」
「土方さん、どこへいったと思う?」
「わからん」
総司が寝返る音がした。
「よ、ば、い」
「夜這いさ。あれは行く宛てがあるね」
囁くように顔を近づけて話す総司の声を聞きながら、さっきの土方さんの様子を思い出した。そうか、そうなのか。
「これからさ、過酷な河原での薬草摘みをさせられるけど。あんまりこき使うなら。今夜土方さんが夜這いにでかけたって事、おとくさんに告げ口するよ」
くっくっくと暗闇に総司の笑い声が聞こえた。総司の悪だくみ。土方さんを脅す。恐ろしい奴だ。だが、総司がここまで言うのなら、薬草摘みは難儀な作業なのだろう。明日からか。それにしても、土方さんは家業の手伝いをして、道場稽古も行い、夜は、夜這い……。強い。強くて何よりだ。そう思った。隣で、総司が「河原に這いつくばって草取りなんて」「積年の恨みだよ、まったく……」などとぼやいている。
螽斯の声が聞こえ、心地よい風が庭から入って来る。
日野はよいところだ。
江戸を離れての出稽古。
明日からが楽しみだ。
総司の声を聞きながら、だんだんと意識が遠のいた。
つづく