戊辰一八六八その5
慶応四年二月
二月の終わりのある早朝、土方が早馬を走らせて屯所に戻って来た。
多摩から急ぎ戻った土方が秋月邸の自室に向かう廊下で、丁度鍛錬を終えて道場から戻った斎藤と顔を合わせた。斎藤は、廊下の向こうから歩いてくる人物が土方だと判るまで、一瞬間があった。
「おはようございます」
慌てて頭を下げて、道を開けるように廊下の端に寄った斎藤の前を、土方は颯爽と前に進んで来た。「起きてたか。具合はどうだ」と立ち止まった土方に、「変わり御座いません」と答えた斎藤は、改めて近くで土方の姿を眺めた。黒い筒袖の上着にズボン。その上から革の帯をしめて大小を差し、首元は白い襟巻を結んで上着の中に入れている。大きく開いた上着の襟には金の縁取りに留め金、中にも黒の上着を重ねてあって金の鎖が見えていた。あれは、前に土方が大切にしていると言っていた西洋の懐中時計だろう。微笑む深い紫の瞳。断髪した前髪が額にかかり、手には黒い外套を持っていた。すらりと伸びた足の先は、見た事のないような足袋を履いている。昔から、土方は反物の色目や柄にこだわりを持った装いをする。襟や袖に金の縁取りが鮮やかで、その恰好良さに斎藤は言葉が出て来ず、ただじっと圧倒されて眺めているだけだった。
「俺の部屋に来てくれ。一寸で済む」
土方はそう言って、足早に廊下を歩いて自室の奥の間に斎藤を招き入れた。畳の上に外套を放り投げるように置くと、どかっと胡坐をかいて座った。そして、「月が変わったら甲府に戦に出る」と言い放った。斎藤は静かにその前に正座をして話を聞いていた。「甲府鎮撫を仰せつかった。局長付き隊士に金五両の手当が下りる。それから、近藤さんのところ、つねさんに三百両、宮川の神前に五十両、これだ。これをつけてくれ」と言って、懐から金銀内訳の書いた紙を取り出して、斎藤に手渡した。斎藤は「はい」と返事をして、両手で丁寧に書付を受け取った。さっと目を通してみると、「中村屋佐兵衛」に「づほん 十三両弐分」と書かれてあった。
「出陣は今のところ七十名。全員にズボンを履かせる」
「上着は木綿の綿入れ、幹部には革靴を履いてもらう」
「大丈夫だ、上着の上からこうやって木綿の腰帯を結べば、大小は差せる」
「撃剣の胴をつけたければ、この上からでも、中にでもつけることは出来る」
「ズボンは、動きやすい。馬にも乗りやすい。これから戦にでるには、洋装だ」
ずっと黙って頷いている斎藤に、土方は上着の前を開けて中に着ているものを斎藤に見せた。陣羽織のようなものを中にも着ておられる。窮屈そうに見えなくもないが、袖や着物の裾がない分動きやすいのやもしれぬ。しかし、どのようにこれらを身に付ければよいのであろう。斎藤は、土方が無造作に畳の上に投げた大きな外套にも目をやった。
「これか?」
土方は、斎藤の目線の先の外套に気づくと。それを手に取って広げてみせた。
「こりゃあ、「まんと」だ。風除けになる」
「馬上でもこれを羽織ってりゃあ、ひとつも寒くねえ」
それは釣り鐘型の身ごろのみの上着で、袖もなく大きな襟に鉤が首元で留められるようになっていた。上背のある土方にちょうどいい長い着丈のものだった。斎藤は改めて、目の前の土方の装いと身のこなしに感心しながら目をやった。昔から、常にきっちりと召し物を着られる方だ。それにしても、髪まで断髪にされるとは。見違えるようだ。とても似合っておられる。
斎藤は、土方の新しい姿にただ感心するしかなかった。そして、戦に出る時にはお前にも筒袖に革靴で出陣してもらうと土方に告げられて、背筋が伸びる思いがした。出陣。いよいよか。そう斎藤は思った。土方は、多摩で新しい隊士の募集をしてきたと斎藤に伝えた。江戸を発って甲府に向かう間に、新しく入隊したものがどんどん加わる。行軍に必要な物は、これに書いてある。すぐに準備に取り掛かる、お前には金銀出納帳を頼む。ここ両日中に、軍資金が入って、つけの支払いを全部済ませる。土方は忙しい様子で、斎藤に部屋を下がらせると、相馬と野村を呼び寄せて、二人に馬引きを命じて和田倉の会津藩邸に出掛けて行った。
それから二日後、屯所に「中村屋佐兵衛」問屋から大量の「ずぼん」が届いた。大きな行李の中には、和紙の包みが入っていて、中には上着が十着。金巾の生地に縁取りがされていた。それぞれの上着には、幹部の名前が書かれた端切れが縫い付けてあった。相馬と野村は「中村屋」から届く新しい隊服について心得ていたようで、手際よく荷物を解くと、幹部の制服を寄り分けて各室に届け始めた。残りの隊士用のズボンと上着はそのまま大広間に運ばれた。外には雨が降り始めていた。今朝早く、千鶴が斎藤の部屋にやって来て、総司のところに行きたいと云って来た。用事は全て済ませてある。今日は雨が降るから。足元が悪いけれど、出掛けるにはちょうどいいですと笑っている。確かに、太陽の光が当たらない。籠を雇えば移動も苦にはならぬだろう。そう斎藤は思った。総司が千駄ヶ谷に移ってから、まだ一度しか顔を見に行っていなかった。二日前、甲行に総司は参加するのかと土方に訊ねたら、近藤さんと総司の様子を見に行ってから決めると言っていた。万が一、総司が江戸で控えになった場合、会う機会をずっと失うやもしれぬ。斎藤はそう思った。
近隣に身内がいる隊士には暇が与えられていた。戦に向かう前の身辺整理は必須だ。斎藤には本郷に山口の家があったが、文で自分が江戸に帰還したことを知らせただけだった。江戸を離れて五年。初めて自分の消息を実家に知らせた。父、山口祐介から直ぐに返信が届いた。斎藤の無事の帰還を喜んでいること、既に隠居の身で足を患い外出がままならぬこと、兄の廣明が算術の手習いで生計を立てていること。江戸が戦になると言われているが、本郷を離れるつもりはない。薩軍が攻めてくれば自分も剣をとり闘うつもりでいると覚悟が綴られていた。甲行での武功を願う言葉と、最後に母親のますは三年前に病で他界したと綴られていた。
最期迄其方ノ無事願続成候
五年前に生家を捨てた自分を母親が想ってくれていたことに感謝の念を禁じえず、せめて墓前に挨拶をと思った。父親からの二度目の返信には、土屋の墓に弔ったと報せがあった。土屋とは母ますの生家のある相模の寺分。安池の地の出身だった母は代々そこに墓所を構えていた。父親の文には、甲行の際、相模国を通過する時に「海に向かって手を併せれば、其方の弔いの気持ちは十分に母親に伝わる」と書かれてあった。甲府への出立の日が決まったら、本郷の実家を訪ねようと斎藤は心に決めていた。そんな時だった、千鶴に千駄ヶ谷にどうしても総司に会いに行きたいと云われた。斎藤は承諾した。千鶴は、「お弁当をご用意します」と言って、廊下を台所へ向かって走って行った。
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総司、奮起する
千鶴の手配で屯所の玄関に箱籠が二台用意されていた。筵の雨よけも掛けてあり、万全の装備だった。空は暗いが、斎藤の外出にはその方が都合良かった。あまり苦しさを感じることなく、そのまま千鶴と籠に乗って千駄ヶ谷に向かった。雨が降り始めていたが、道も悪くなく駕籠かきの足どりは軽かった。半刻もかからぬ内に総司の療養する植木屋の家に到着した斎藤と千鶴は、植木屋の女房に離れに通された。
総司のいる部屋に入った時、総司はまだ布団の中で眼を瞑ったままだった。眠っている総司の傍にそっと音を立てないように静かに座った斎藤と千鶴は、眠る総司の顔色を確かめるように畳に手をついた。その時だった、総司は急に足で布団を蹴り上げて「うわっ」と声を上げた。千鶴は、驚いて後ろにひっくり返りそうになった。総司は身を起こして、目を丸くして腰が抜けるほど驚いている千鶴の顔を見て、肩を震わせて笑っていた。
「ほんとにすぐ驚くんだから」
慌てて身仕舞を直して座り直す千鶴を見ながら、総司は、くっくっくと笑いながら布団の上に胡坐をかいた
「それで何の用?二人して」
総司はいつもの調子だった。見舞いに来たと斎藤が云うと、「そう。僕はこの通り、ちゃんと横になって養生に励んでるよ」と嫌味な様子でごろんと布団に仰向けになった。千鶴は、総司の顔色が良くて、お元気な様子で安心したと笑いかけると、「そう?」と総司は嬉しそうな表情を見せた。
「医者の娘の君がそう言うなら」
総司は身を横にして腕枕をして千鶴に笑いかけた。総司の背中側に座った斎藤は、「総司、刀を出せ」と声をかけた。総司は、斎藤の方に振り返ると、斎藤は自分の傍に置いた風呂敷包みを開けて刀の手入れ道具一式を取り出していた。総司は、勢いよく起き上がると、刀置きのから打刀と脇差を持って来た。そして、斎藤が、部屋の隅で手入れの準備を始めると、厠に行ってくると言って、障子を開けた。外は雨が酷く降り始めていた。廊下からの光が部屋に入ったが、それは斎藤の座る部屋の隅には届く事がなかった。総司は少しふらつくような足取りで廊下を歩いていったが、暫くすると部屋に戻り、斎藤と一緒に刀の手入れを始めた。千鶴は、総司の背中に羽織をかけて、母屋の女将が運んできたお盆を受け取ると、「どうぞ、お構いなく」と言って部屋に座ってお茶を煎れて、総司たちにお茶を差し出した。
総司と斎藤は黙々と手入れを続けている。二人の真剣な表情は、外からの湿気をも刀に当ててはならないという暗黙の約束を守っていた。千鶴は、総司の身の廻りのものが殆ど綺麗に片付いて整理されており、汚れ物や洗濯物は一切溜まっていないことを確認した。布団の敷布も清潔なもので、洗い替えの敷布も沢山綺麗に火熨斗が掛けられたように皺ひとつなく畳んで行李にしまわれているのを確かめた。総司の身の廻りの世話は、総司の実姉がしていると聞いていた。江戸から帰還した時は瀕死のように弱っていた総司が、自分に悪戯を仕掛けてくるぐらいまで元気になっているのは、お姉さまが親身に傍で世話をしているからだろう。こうして、斎藤と総司が並んで刀の手入れをする姿は、京の屯所に居る頃を思わせた。二人とも誰にもご自身の刀を触らせることがない。互い以外には。
千鶴は二人の邪魔をしないように、お茶の入った盆を片付けて母屋に向かった。植木屋の女房は、お昼の準備をと千鶴に声を掛けたが、千鶴はお弁当を用意してきたからと断った。女房は、みそ汁をこさえたからと言って、お勝手に千鶴を案内して、へっついの上の鍋を再び火に掛け始めた。千鶴は、女房から日頃の総司の様子や見舞いに訪ねてくる人の話を聞いた。総司の姉のおみつは毎日のように来て、時々は泊まって看病していくこともある。背の高い立派なお侍様というのは、土方のことだろう。頻繁に訪ねて来ては、少しの間離れに居て、お帰りになる。槍を抱えたお侍様は、私共にもお団子や饅頭の土産を置いて行かれる。これは左之助の話をしているようだった。夜間に時々、訪ねて来るお侍様もいると言っていた。外見の特徴を訪ねると、平助と山南だと思った。皆さん、沖田さんのもとに頻繁に来られて……。千鶴は安堵した。
千鶴は、刀の手入れも終わった頃だろうとお盆に味噌汁を載せたものを離れに運んだ。総司は、布団に横になっていた。斎藤は、ちょうど道具を仕舞い終わったところだった。千鶴は持って来た重箱を広げて、総司と斎藤に給仕をした。総司の好物と斎藤の好物をふんだんに用意した御重を二人は舌鼓をしながら黙々と食べた。総司の食欲旺盛な様子に、斎藤は驚いていた。さっき、刀の手入れの途中で急に咳込んで苦しそうにしていたが、大丈夫だ。きっと総司は。斎藤は、総司の横顔を見てそう思った。そう思いたかった。
——これなに?
小さな蓋つきの器を覗いた総司は千鶴に訊ねた。千鶴は、葛と寒天で牛の乳を固めたものだと答えた。黒胡麻を入れてある。色は悪いけど滋養にいいものですといって、別の容器にもってきた黒蜜をそっとかけて木の匙といっしょに総司に差し出した。それは甘くて柔らかく、つるんと喉に入って美味しかった。総司は、気に入った様子で全て平らげた。
「噛まなくていいものって、僕好きだよ」
総司は昔から咀嚼をするのを面倒がる。隣で斎藤は微笑んでいた。
「雪村、何を食べても美味い」
珍しく、斎藤も千鶴が用意したものを言葉にして褒めた。千鶴は心から嬉しかった。昼を食べ終わると、総司は薬を嫌がらずに飲んだ。布団の上で腰かけたまま、斎藤達を見上げる姿は、京で懸命に元気になろうとしていた総司を思わせた。髪を結い上げているのも、起きていようとする意志の現れだ。そんな風に思って、千鶴は再び総司の背中に羽織を掛け直して励ました。
「また会いに来ます。今度は、卵を使ったものを持って来ます」
千鶴はこの時、戦から戻る斎藤達を江戸で待っていようと思っていた。待機中は千駄ヶ谷に総司の世話に来ることも考えていた。総司は笑顔で頷いていたが、既に強く戦への参加を決心していた。
——その前日のこと。
千駄ヶ谷に土方と近藤が訪ねて来た。二人は、総司に甲府に戦に行くことを告げた。総司は自分も一緒に行くと云ったが、土方は床上げもしていないお前を連れて行くわけにわ行かねえと断った。総司は憤慨した。近藤は、後行軍として江戸を発つ。その時までに総司は良くなるだろう。そう言って総司に笑いかけた。総司は、「はい、近藤さん」と笑顔で頷く。総司は奮い立った。時々起きる咳の発作と発熱さへやり過ごせば大丈夫。ずっと自身に言い聞かせた。近藤達が部屋から去った後、入れ替わりに姉のおみつがやって来た。今日は、洗濯物を引きとって直ぐに帰らないとと言って、総司の身体を拭きかけたが、総司は湯に入りたいと言い出した。熱もないからと言って、総司は昼間から離れの土間で行水をした。おみつは総司の背中をごしごしと流した。
「総司、お前は大丈夫です。姉上が太鼓判を押します」
「今こそ、武功をあげる時です。薩軍を江戸に入れてはなりません」
「旦那様も江戸を守ると頑張っておられます
総司はずっと頷き続けた。姉上が強く背中を手拭で擦りながら身体を温めてくれた。近藤さんの為、僕は頑張る。甲府で薩軍を止める。これが僕の剣の道。
総司はそう決心して、姉が差し出す薬も飲んだ。二日後にまた来るからと急いでおみつは帰って行った。薬を飲み、養生して戦に備える。あと数日のうち。僕は床上げをして近藤さんについて行く。近藤さんを守って、薩軍を止めてみせる。絶対に。
この時の総司の覚悟は、相当なもので千鶴と斎藤が訪ねた日の翌日には床上げをして、庭で真剣を振るい始めた。
*****
慶応四年三月一日
先行部隊七十名が甲行の先陣を切った。前日に、留守中の土方から直接千鶴に文が届き、斎藤と共に先行部隊に随行するようにと指示があった。千鶴は驚きながらも、直ぐに身の廻りの準備を整えた。斎藤はずっと朝から合議にでて広間に詰めていた。甲行せずに江戸に控えとなった山南の率いる羅刹隊は、このまま秋月邸に留まることになった。
ばたばたと部隊の準備で騒々しい屯所内で、千鶴は次々に洋装に着替えた新選組幹部の姿を目にした。皆が断髪をして、筒袖を纏いズボンを履いていた。土方は、広間に置いた西洋椅子に腰かけていた。いつの間にか、土方もあの艶やかだった髪を断髪して、「ふろっく」と呼ばれる上着を着ていた。堂々とした佇まいは、部隊の大将らしく。足を開いて背筋を伸ばし、愛刀を床に突き刺すように立てていた。そして、よく通るいつもの声で、「合議を始める」というと、その声はそれまで騒がしかった広間や廊下にまで響き、続々と幹部たちが広間に集まってきた。
斎藤は眩しい光が射す広間に深呼吸をしながらゆっくりと入って行った。目の前に立った千鶴が自分をまっすぐと見詰めたままじっと立っている。光の眩しさに息苦しいが、千鶴の大きな黒い瞳に見入ってしまい動けない。何だ、雪村。なにゆえ、じっと立ったままでいる。訝しい思いが胸に走ったが、千鶴の向こうで、平助が奥の影から斎藤に手招きしているのが見えて居た。
「斎藤さん……」
目の前の千鶴は、じっと動かぬまま。不思議そうに自分の姿を見ていた。そんなに、おかしいのだろうか。支給された上着は、黒い「ふろっく」で、自分が昔から用いている九つ葉の紋が襟に意匠としてついていた。金色の縁取りは高い襟や袖口にも施されている。これは俺には派手過ぎるのやもしれぬ。
「よくお似合いです」
小さな声で呟く千鶴の声が聞こえた。面と向かって褒められるのは照れ臭い。気づくと千鶴は自分の上着の前の裾をひっぱるように掴んで小さな指で釦の数を数えている。伏せた睫毛の下で、その桃色の唇を尖らすような形で数え上げると。もしかしたら、斎藤さん。上着の釦を掛け違えていらっしゃるかも。そう言って不思議そうに顔を見上げて来た。小恥ずかしいことだ。このような筒袖ひとつまともに纏えぬとは……。「後で直す」、「いえ、わたしこそすみません。余計な事を」「いや、俺は……その」、顔を俯けたままの千鶴の顔を覗き込むように、そう言いかけた時。
「おい、いつまで二人でいちゃいちゃやってんだ」
「早く座れって」
気づくと、新八が集まった隊士の最前列に座って、入り口に立った斎藤と千鶴に冷やかしの言葉を掛けた。千鶴は「すみません」と言って後ろに下がって行った。斎藤は耳までかーっと赤くなったのが自分でも解った。そのまま急ぎ足で、平助に呼ばれた背後の影の出来た場所で隠れるように正座をして座った。
合議は出陣の心構えと行軍道程の説明が主だった。合議の後に出発したら、内藤新宿で一泊する。宿には郷里に戻っている者も夜までに集まるように告げてある。吉河屋を貸し切ってある。楼全てが俺たちの寝所だ。そう土方は話した。吉河屋は宿場で一番大きな遊女屋だった。そこで出陣式を執り行うという事だったが、実際は、戦勝祈願というより息抜きのような酒の席が設けられただけだった。斎藤は三番組の隊士数名と千鶴を連れて、土方たちの出陣より遅れて、薄暮の時間に屯所を出立した。夜遅くに吉河屋に着いた時には、既に隊士たちは酔いつぶれていた。
まだ夜風が冷たいにも関わらず、土方は洋装の上着を肩に引っ掛けて、開け放した窓の桟に腰かけて欄干に腕を載せていた。ぼんやりとした月明かりの下で、考え込むようにじっと佇んでいる。斎藤が近づいて、いま宿に着いたと報告すると、「よく来た」と言って、直ぐに仮眠をとってからここを出て、布田で宿をとって休めと指示をした。「はい」と返事をする斎藤に。
「これだ。これを持っていろ」
土方は上着の内側から文のようなものを取り出した。斎藤が窓からの月明かりに広げて読むと、それは土方が書いた斎藤と千鶴の身元証明と、必ず日中に誰にも知られぬように宿をとらせる事。重要な客人として丁重に扱うようにという念書だった。土方の署名に花押まで書かれていた。布田、三島家。府中若松村関田家。谷保、本田家。日野、佐藤家。土方庄助宅。八王子、松崎家。宛先はどれも土方の懇意にしている家で。斎藤もかつて多摩に出稽古に出た際、立ち寄った事のある家だった。
「昼間に移動が難しい時は、夜間に千鶴と一緒に行軍することも出てくるだろう。この念書はその時のものだ。甲府までの道すがら、どこかしら俺の知り合いの家があると思っておけばいい。遠慮なく頼れ。人馬、人夫、必要なものは全て用意するように言ってある」
「安心しろ、ここいらは俺らの故郷だ。甲行軍は庭を歩いていくようなもんだ」
月明かりが輪郭を灯すような土方の顔で、瞳だけがじっと斎藤の眼を見詰めてきている。静かに微笑みを見せながら、一緒に移動できるうちは出来る限り同じ隊で進む。そう土方は斎藤に約束した。斎藤は、有難うございますと深々と頭を下げて礼を言った。
「それでは、先に失礼します。布田で待っています」
「ああ、わかった」
土方は頷いて、部屋から下がる斎藤が閉めた襖をじっと眺めていた。
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行軍と撤退
数時間の仮眠の後、眠そうな千鶴と隊士たち数名で、斎藤は暗い内に内藤新宿を発った。高井戸に着く頃には空が白くなってきたが、空は濃い雲が立ち込めていて今にも雨が降り出しそうだった。足元が悪くなるのは困るが、陽の光が射さないのは有難い。街道沿いには殆ど日除けになるような場所はなかった。千鶴は、斎藤が苦しければすぐに農家の小屋でも借りることも出来るからと、ずっと斎藤の傍を小走りに急ぎながら話す。
「大事はない」
「布田まではすぐだ」
斎藤はそう答えて歩き続けた。隊士たちが「腹が減った」というので、街道の木陰に腰かけて、皆で握り飯を食べた。千鶴が新宿の宿で眠る前に握って用意していたものだった。腹が膨れると、隊士たちは俄然力が湧いてきたようだった。千鶴が断るのに、いいからと二人は腕を組んで神輿のようにして千鶴をその上に載せるとワッショイワッショイと掛け声をかけながら、進んで行った。布田宿には五つに到着した。三島家は街道からすぐの場所にある庄屋の家だった。斎藤が名乗ると、三島家の主人は「待っておりました」と言って、客間の奥の部屋に斎藤達を通した。雨戸を引いて完全に外の光を遮断した部屋で、斎藤は横になると気を失ったように夕方まで眠り続けた。無理もない、もうずっと一日に数時間横になるだけの生活が続いていた。出陣前は、体力も限界に達していただろう。それでも、屯所内の雑務を全て引き受け、出陣を拒否され憤る山南を警戒してずっと昼夜千鶴を守り続けた。
はじめくん、屯所は預かった。
こっちは大丈夫だから。秋月邸を出る時、平助が部屋を出る斎藤を見送りに来た。山南さんは今の内に羅刹隊に調練をしておくと言って張り切っている。そう平助が苦笑いした
——夜間に斥候部隊として敵に近づき、間道を通って誰よりも先に攻め込む。
羅刹隊である我らなら、そういった先駆部隊になることも可能でしょう。
山南は羅刹隊が戦の主戦力になる事を当たり前のように合議で語る。
「羅刹隊が動けるのかも甚だ疑問な上に、いつ暴走するかもしれねえのにさ」
平助は冷静だった。でも、山南さん。ほんとに懸命なんだぜ。そう言って平助は溜息をつく。
「血に狂う発作さえ押さえられれば。我々は力を得ることに成功したことになる」
これは山南の口癖らしい。変若水を口にして、羅刹と化した自分は手に取るようによく解かる。山南の希望と同時に抱える絶望を。せめて、一糸報えるならば。そう思うしかない。自分の新たに得た力を思う存分発揮して役立てたいと思う。それは、己も同じだ。
夕方に目覚めてから、斎藤は、暫く布団の中で屯所に留まる平助と山南のことを考えた。千鶴はとっくに起き出して、夕餉の支度を手伝っていたらしく、土方が先行隊と一緒に布田を通過した際に、斎藤に残した伝言を報せに来た。
先に日野に行っている。
府中から八王子にかけては、ゆっくりと行軍する。
明日にでも追いついて来い。
新しい隊士が隊に加わる。
武器搬送隊を先に、我々が最後に出立の予定だ。
土方歳三
夕餉を食べ終えると、再び斎藤は千鶴と一緒に部下を連れて、布田を発って日野には明け方に着いた。本陣近くの上町の旅籠三軒が先行部隊の待機所になっていた。本陣では日野の農兵部隊の結成式も執り行われたらしい。隊に合流した斎藤と千鶴は、新八たちが待機する宿に向かった。
「府中からこっちは、まるで大名行列みてえだ。さっさと道を開けりゃあいいのに。沿道で、酒樽を開けて振る舞い酒をしていて、ちっとも前に進めねえ」
「仕方ないだろう。ここは、土方さんの地元だ。日頃世話になっているお大尽様が、これから幕府を守る為の戦に出るってなれば、そりゃあ三献の杯を勧めて送り出すだろうよ」
不貞腐れたような態度の新八を左之助が宥めている。
「近藤さんも、何をちんたらやってんだか。俺らの後に内藤新宿を発ったって。雨が降ってるからって、一泊丸々収まっちまって」
「戦なんてよ、勢いだろ、勢い」
「敵を迎え撃つのに、こんな手前くんだりで足踏みする必要がどこにあんだ」
完全に新八は絡み酒のようになっていた。斎藤は黙って話を聞いていた。今日は雨が降ることは解っていた。それでも、駒木野までは進む必要があった。その向こうは宿もなくずっと山岳行軍になる。斎藤は、昼夜関係なく隊と一緒に行軍する予定だった。傍の千鶴は、夜中の移動で疲労している様子だった。幹部の皆に挨拶をすると、斎藤に促されて奥の間に行って、横になり始めた。
「これから峠超えも控えている。斎藤、千鶴を十分に休ませてやれ。お前もそうだが、千鶴は辛くても我慢して小言ひとつ漏らさねえ」
「俺から三番組の奴にも伝えておく。無理は禁物だってな」
左之助の心配をよそに、斎藤は千鶴を連れて再び夜間に日野を出ると、ひたすら街道を進み、先に与瀬に宿陣した。少しの仮眠の後、日中も雨で足元の悪い中、ずっと行軍を続け、三月四日に駒飼に辿り着いた。そこで待機している間、土方たち先行軍と近藤の後行軍が合流し、ここで皆が一同に会した。近藤の隊に総司の姿はなかった。斎藤は、総司は江戸で待機することになったのだろうと残念に思った。その時だった、先に甲府に偵察に出向いていた大石鍬次郎が合流した。既に新政府軍が甲府入りしているという情報を大石から聞いた隊士たちは動揺した。
江戸を先陣として発った土方たち七十名。その後続隊が百名、それに日野から加わった春日隊が二十名余り。総員二百名だった部隊が、勝沼の手前の地で既にその内八十名が逃亡してしまっていた。
翌三月五日、勝沼に布陣した。既に甲府城中に敵兵が入っており、鎮撫隊では城攻めをしなければならない。百名あまりの味方の兵の数に対して、敵兵は千人を超えていた。圧倒的に不利な状況の中、土方が江戸に援軍の要請に向かうと決心した。
早馬の手配を済ませた土方が、斎藤に形勢が不利と判断したら、真っ先に千鶴を連れて江戸に向かうようにと命令した。
「斎藤、念書を忘れるんじゃねえ。敵軍が江戸に迫っても、あの念書の宛先の場所なら潜伏可能だ」
「江戸に大砲が三門ある、あれを使って応戦する」
土方は馬上でマントを羽織ると、馬の腹を蹴って一気に山道を駆け上がって行った。
鎮撫隊は、柏尾に大砲二門を置いて、川向うの岩崎山に布陣した官軍と応戦しあった。近藤の「皆の者、一気に攻めろ」の掛け声で、新八たち先駆隊が敵陣に斬り込んで行ったが、圧倒的な敵の兵数に川の手前に押し返された。高台にいた近藤から、敵兵が川を超えて続々と襲ってくる様子が見えた。大砲は、砲台掛が全く手順を分かっておらず、攻撃はままならない。
「大砲を扱えるものはおらんのか」
近藤の叫ぶ声が響く中、戦闘経験のない農兵部隊はおろおろとするばかりだった。陣の後方で待機をしている千鶴は、斬り込み部隊が無事に戻ることをひたすら祈り続けた。必死に走って戻った新八が、「撤退だ。近藤さん」と叫んだ。敵が目前に迫っているのに、まだ近藤は陣を引くことを躊躇していた。ここで新八と近藤が兵を撤退させる、させないで言い争った。
「何言ってんだ。近藤さん。敵兵は昼間でも動ける羅刹兵だ。俺らがどうやっても歯がたたねえ。城攻めするなら、もうちょっと策を練ってからじゃねえと」
「近藤さん、新八の言う通りだ。ここが引き際だ」
左之助が新八に加勢し、その場は騒然となった。「土方さんが援軍を連れてくるまで一旦兵を引いて、それから攻めるのが得策だ」、そう皆が近藤を説得してようやく、陣を引くことになった。
斎藤は、陣の後方で待機する千鶴の姿を見た。敵の流れ弾や大砲の弾がいつ飛んでくるやもしれぬ。撤退するのなら今だ。陽が高いが雪村を連れて江戸に向かおう。そう決心した。なんとか峠を越えれば日没には、駒飼にまで戻れるだろう。新八たちが援護してくれている中、千鶴の手を引いた。千鶴は驚いていたが、背後に砲弾の音が聞こえていた。あんたは、これ以上此処に留まる必要はない。
「あんたを連れ帰るように、土方さんに命を受けた。来い」
皆の安否を心配する千鶴に向かってそう云うと、強引に手を引いて山道に向かった。左之助が、「おい、他に言い方があるだろう。斎藤。千鶴、気を付けてな。斎藤の傍についていりゃあ大丈夫だ。俺らもすぐに追いかける」と声をかけた。千鶴は、皆さんどうかご無事で。そう言って何度も後ろを振り返りながら、斎藤に手を引かれて走り続けた
陽の光が痛い。とにかく走り続けよう。山の中へ、間道で影を探して移動だ。
斎藤は、既に息苦しさを感じながらも、千鶴の手を引いてひたすら木陰を抜けて走り続けた。
つづく