薄桜鬼小品集
文久元年十月 江戸小石川にて
朝から、伊庭八郎は下谷の自宅を出て小石川に向かった。
小石川蘭学所。雪村診療所の離れで、蘭方医の雪村綱道が蘭学を教える私設の学問所。そこに伊庭は三年前から通っている。今年の春までは、毎日講習所に足を運んでいたが、最近は、月に一度しか小石川に出向くことが出来なくなっていた。練武館での師範代役として連日稽古をつけねばならず、年明けには幕府御書院番の父親に伴として城勤めに出る事が決まっていた。それでも伊庭は、剣術の稽古と同じぐらい学問に励んだ。西洋医術の知識も併せ持つ雪村綱道の講義は非常に興味深く、伊庭は出来れば城勤めと一緒に蘭方医になる為の勉強を続けたいと思っていた。
蘭学所に上がると、伊庭はいつもの席について書物を片っ端から翻訳して読み進めていった。背筋を伸ばし、集中する伊庭に、時々雪村綱道が語りかけ助言する。伊庭はその都度、辞書を引き直した。いつも、小屋の後方の席で、一緒に手習いをする雪村千鶴の姿が見えないことに気がついたのは、半刻も過ぎたころだろうか。伊庭は、机上の書物を交換するため立ち上がると書庫に向かった。そこにも千鶴の姿はなかった。
廊下に出て厠に行ったついでに、母屋も覗いてみたが千鶴の姿は居間にも見えなかった。
伊庭は、今まで手習いを欠かした事がない千鶴が不在な事を訝りながら自席に戻った。暫く経って、ようやく千鶴が講習所に姿を見せた。千鶴はいつもの袴姿ではなく、濃い紅色の着物を身につけていた。部屋の一番後ろの席に座り静かに手習いを始めると、途中で席を立って墨を磨る為の水を容器に汲んで来た。そして、手習いをする小さな子供の机上に水差しを置いた。伊庭は、書物を読みながら時々視界に入る千鶴を眺め続けた。
お昼前に千鶴は再び机上を片付けて、講習所から出ていった。昼餉の支度にとりかかる為だ。
午の休憩が始まると、伊庭は母屋の居間に向かった。千鶴が、伊庭の昼の膳を並べ始めていた。蘭学所に通い始めて間もなく、雪村綱道は手弁当を持ち込む伊庭に、食事は母屋で一緒にと誘った。千鶴は、その頃から昼食の支度を独りでするようになっていた。伊庭は、小さな千鶴が立派に台所の竈の前で、煮炊きを上手にする様子を眺めて感心していた。
雪村千鶴に母親は居なかった。千鶴が幼少の頃に亡くなったと聞いていたが、雪村の家に母親代わりになるものは誰も居らず、唯一近所に住む商家の番頭の妻が、朝に食事の支度を手伝いに来ているだけだった。下女も雇わず、幕府の番医師である雪村綱道は、静かに慎ましく生活をしていた。そして、この小さな少女がほとんどの家事を引き受け、その合間に手習いや小太刀の稽古をしていた。
伊庭はちいさな千鶴をいたわり、可愛がった。時折、寂しそうな表情を見せる千鶴が気になる。同じ年の子供たちと一緒に遊ぶ様子もみせず、千鶴はいつも静かに診療所の中で独りで過ごしていた。伊庭は昼餉を一緒に千鶴と食べ、膳を一緒に片付け、その後小太刀の稽古に出る千鶴と一緒に道場まで歩いた。千鶴は伊庭の前ではよく笑い、元気に小太刀を振るっていた。
去年までそんな毎日を送っていたが、今日は様子が違う。お膳についた伊庭の傍で、給仕を始めた千鶴は、少し物憂げでやつれた様子だった。そこに、中庭から声を掛ける者があった。
「千鶴ちゃん、今からお昼かい。ちょうどよかった。今、お赤飯が炊きあがってね」
と言って、縁側に腰かけた女が風呂敷を拡げて、中から重箱を取り出して差し出した。千鶴は、伊庭にすみませんと会釈してから立ち上がった。
「お夏さん、わざわざ用意してくださったんですね。どうもありがとうございます」
そう言って、縁側のお夏からお重を受け取った。
「お祝いだよ。ちょうどよかった。お昼にお上がんなさいな。先生にも」
お夏はそう言って立ち上がった。
「よく似合っているね。一気に娘らしくなって。後ろも見せておくれでないかい」
そう言って、千鶴の髪型や着物を眺めて「嬉しいことだよ。先生もさぞお悦びだろうね」と云って伊庭に会釈をすると帰っていった。
千鶴は重箱を持って、伊庭の傍に戻って来ると。暫く黙って俯いていたが、顔を上げると伊庭に尋ねた。
「お赤飯を頂いたので、八郎兄さん、もし宜しければ。お召し上がりください」
そう言って、新しい茶碗に赤飯をよそって差し出した。伊庭は、「有り難く頂戴します」と云って喜んで食べた。よく炊けた美味しい赤飯だった。千鶴も自分の膳の前で少しだけ昼餉を食べた。
食事のあとに一緒に膳を下げた伊庭は、台所の流しの前で千鶴の隣に立った。茶碗を盥に溜めた水に丁寧につける千鶴を傍で眺めた伊庭は、千鶴がいままでの上げ髪とは違って、髷を作った結い方をしているのに気づいた。今まで切り下げだった前髪が、今日はすっきりと額の上にまとめられている。おでこを見せた千鶴は、大きな瞳がより一段と目立って愛らしかった。
長い睫
小さな形のよい鼻筋
桃色の唇
小さな顎
横目で千鶴の横顔を盗み見ては胸の辺りがふわりと感じる。伊庭は、この感覚がもっと大きくなる予感がして仕方がなかった。いったい鳩尾のこれは何だろう。
昼の休憩の終わりを報せる鐘の音がした。伊庭は、もう一度おさらいをしに蘭学所に戻った。千鶴は、もう蘭学所に戻ってこなかった。一通り、講習が終わると、伊庭は身仕舞いをした。そして、再び母屋の居間に戻った。今日は、千鶴の小太刀の稽古日。一緒に道場に向かう。千鶴の支度が出来るまで、いつも居間で待つことになっていた。しかし、待っていても千鶴は現れなかった。
静かな居間に、奥の間から雪村綱道の話す声が聞こえてきた。
なにも心配はいらない。
少し、血を失っているだけだ。
ゆっくり横になっているといい。
じきに良くなる。
月のものは、病ではないのだよ。
初花は御目出度いものだ。
午後の診療が終わったら直ぐに戻るよ。
優しい父親の声に、千鶴は安心しているようだった。
はつはな
伊庭は知っている限りの知識を呼び起こした。月のもの……。
そうか
やっと伊庭に千鶴の変化が理解できた。さっきの物憂げな様子も。蘭学所に来なかったことも。
居間で静かに待つ伊庭のもとへ雪村綱道が奥の間からやって来た。
「八郎君、申し訳ありません。今日、千鶴は小太刀の稽古はお休みします」
大変お待たせして申し訳なかった。そういって謝る綱道に伊庭は、いいえ、それでは私はお暇しますと云って一礼すると縁側で草履を履いた。刀と道着を持って立ち上がり、中庭を横切ろうとすると背後から声が聞こえた。
「八郎兄さん。お待ちになってください」
振り返ると、千鶴が縁側まで出てきて伊庭を呼び止めていた。
「これを大先生に」
御影石の台に降り立つと、草履を履いて風呂敷包みを渡そうとする。伊庭は、縁側に引き返した。
「中に林檎の実が入っています。信濃の国の土産だと、父様のお知り合いから沢山頂いて」
千鶴は、いつもお世話になっている道場の先生に渡して欲しいと言づてを頼んだ。そして、居間のお膳の上にあった林檎の実をひとつ手に持って、再び縁側で草履を履くと。伊庭のもとに駆け寄ってきた。
千鶴の手から紅い林檎の実を受け取った伊庭は礼を言った。
甘い香りはこの小さな果実からだろうか
千鶴からふと風にのって薫る甘い香りに心が沸き立つ
全てがゆっくりと動き始めた。伏せがちな千鶴の長い睫がゆっくりと八郎を見上げる。
「門までお見送りを……」
小さく呟いた千鶴は、伊庭の背後を歩いている。伊庭は振り返って千鶴の姿を眺めた。
胸がしめつけられるような……。
静かに、ゆっくりとこの想いが満ちてくる。
伊庭は優しく千鶴に微笑みかけた。二人で互いに会釈をしあう。そのまま伊庭は歩きはじめた。手に持った林檎の甘い香りを嗅ぎながら……。
まだあげそめし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり「初戀」**
伊庭八郎 十七才、雪村千鶴 かぞえで十三の秋のこと。
了
(2018.09.18)
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**書誌ID 300015206 若菜集,A 島崎藤村 著 明治31.5.27 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300015206/