空の家に斎藤と風間が到着して半刻が過ぎた。
お多佳は仕事部屋のある離れの階段をしずしずと上がっていった。お盆には茶巾寿司と小さなお椀が三つ。美しい硝子の小鉢に香の物。
時折聞こえる斎藤の静かな声。お多佳は土方がずっと沈黙している様子が気になった。
柱についた呼び鈴をいつものように二回鳴らすと、「入れ」と声が聞こえた。お多佳はその声音で夫が随分と不機嫌なことを察した。
土方の仕事部屋は空の家の塔の一番上にある。正方形の部屋は四方に窓が設えてあり、南側の窓が常に開け放たれている。部屋の中央に深緑の天鵞絨長椅子と洋卓が置かれ、風間と斎藤が腰かけていた。部屋の主は短い一人掛けの椅子に足を組み右手で前髪をかきあげるような仕草でじっとうつむいている。お多佳は静かに洋卓に軽食を置いて盆を持って下がった。戸を閉めると再び斎藤の静かな話し声が部屋の中から聞こえてきた。
「出発は一両日中に。船の手配が整い次第向かいます」
「鹿児島港か」
「西海に廻ることは勧めぬ、陸路を我が郷へ」
風間千景の声が響いた。お多佳は斎藤が西国の鬼の郷へ赴くことに思い至った。
「鹿児島なら三井に手配を頼める。大阪か神戸に寄港して瀬戸内を通る航路だ」
「ありがとうございます」
「船は出す。だが、豊誠を行かせるわけにはいかない」
部屋から物音がしなくなった。お多佳はそっと階段を下りて行った。お勝手でお茶の準備をしながら数日の内に土方も鹿児島に赴くことになると思ったお多佳は、すぐに旅支度にとりかかった。お茶を仕事部屋に持っていくと、土方は食事には全く手を付けずに南側の窓の前に背を向けて立っていた。腕組みをしてじっと黙っている。洋卓の食事は綺麗に斎藤が平らげていた。風間は膳を下げるお多佳に目礼をして組んでいた足を反対に組み替えた。
「坊主が決めたことなら反対はしない」
「だがな」
腕をおろした土方が振り返るように風間に向かい言い放った。
「俺の経験上、女子供を巻き込む戦に勝ち目はない」
「鬼火の化け物めがけて最前線に向かわせるのは無謀な策だ」
「俺が行きます」
遮るように斎藤が応えた。
「決して俺より前には行かせません」
土方は深く溜息をつくように息を吐いた。
「わかった」
「お前がついているなら」
「どんなことがあっても、必ず帰って来い。いいな」
「西村、礼を言う」
風間はおもむろに立ち上がり深く頭を下げた。それは、二年前に雪村の里で烏帽子親を務めた時に最後まで風間が拒んだこと。人間に対して風間が初めて見せた丁重な態度だった。話が決まれば、あとは早かった。お多佳が煎れたお茶にほとんど手をつけぬまま、風間と斎藤は空の家をあとにした。西国に急ぎ戻る風間と別れた斎藤は、その足で神田に向かい行きつけの刀商「飯田屋」の玄関を叩いた。夜分の突然の訪問に店主の国太郎は酷く驚いていたが、斎藤が持ち寄った愛刀の手入れを快く引き受けた。
***************
斎藤が小石川に戻った時、子供達は既に床に入っていた。豊誠は夕餉も食べず、口を一文字に結んだままずっと決められた就寝の時間まで正座して斎藤の帰りを待っていたらしい。千鶴の方が折れて、握り飯を作って食べさせてから布団に横にならせたと報告があった。
「話がある」
片付けをしにお勝手に立とうとした千鶴を斎藤が呼び留めた。千鶴は覚悟を決めていた。一旦着けた前掛けを取ると、居間の斎藤の前に正座した。
「さっき、土方さんと話し合ってきた。明後日に出立する」
「鹿児島まで船でいき、そこから陸路で西国の郷に向かう」
「明日の朝虎ノ門署に出向いて勤務を解いてもらう」
「尋常小学校に届けを出す必要もあろう」
千鶴は豊誠も西国に行くことに愕然とした、と同時に両の眼から涙が溢れて来た。手に持っていた前掛けで顔を覆い、肩を落として嗚咽している千鶴に斎藤は優しく語り掛けた。
「福江の五島殿が鬼火に巻かれたそうだ」
「多くの者が被害に遭っている」
千鶴は顔をあげた。涙に濡れた瞳を見開き呆然とした様子で「ごしまどの……」と呟いた。
「そうだ。豊誠が世話になっている繁千賀(しげちか)の父親だ」
繁千賀と聞いて千鶴は驚いた。西国の豊誠の友。肥前を治める五島家の嫡男である繁千賀は豊誠より一つ年上で、毎年夏になると西国の鬼の郷に呼ばれ豊誠と共に過ごしている。五島家は元福江藩の藩主でもある。
「福江の石田城は海の上に築かれた城だそうだ。鬼火は城を襲い、炎にまかれた多くの者が一瞬で姿を消した」
千鶴は息を飲んだ。鬼火。診療所の庭を荒らした恐ろしい炎。息子の瞳に映った青い光は鬼火そのものだったらしい。炎にまかれて姿が消える。なんて恐ろしいこと。
「城は討ち棄てられ、福江の民は逃げている。五島繁千賀は風間と御護に出ていて難を逃れたそうだ」
「これ以上鬼火に巻かれる者を出してはならぬ」
斎藤は千鶴に言い聞かせるように静かに話す。
「放っておけばいずれ東国の郷にも鬼火が出るやもしれぬ」
「郷は守らねばならん、どんなことがあろうと」
千鶴はゆっくりと首を縦に振った。
「日がない。準備を頼む」
「はい」
涙声で頷いた千鶴を斎藤は抱き寄せた。腕の中の千鶴は声を堪えて小さな肩を震わせている。
「必ず豊誠は連れ帰る。心配するな」
斎藤の腕の中で一頻り泣いた千鶴はゆっくりと立ち上がった。斎藤は千鶴に促され寝間に入って横になった。居間の行灯の光が襖の隙間からぼんやりと漏れている。暗がりのなかで斎藤は西南の戦で豊後嵯峨関に降り立った日を思い出した。横浜から船で丸二日。港の近くで一泊してからの行軍。風間のいう西の果ての海は福江のさらに先にあるのだろう。海城が襲われた。一刻も早く行かねばならぬ。心に映る南国の陽射し、大海原の向こうに鬼火が水平線をかき消すように揺れ動く。
斎藤は目を瞑り次の一手を考えた。蠢く青い炎を己の剣で根こそぎ断ち切る。一瞬の隙も与えずに前に進む、それしかないだろう……。
*******
翌朝、斎藤は早くに家を出て虎ノ門署に向かった。千鶴は一睡もせずに豊誠のレキションを縫い、背宛てと下着を二揃え用意した。大急ぎで洗濯を済ませ、子供が起き出してくると、ぱたぱたと出掛ける準備をして千桜を背負い、剛志の手を引いて豊誠と一緒に学校に歩いていった。礫川尋常小学校は診療所から富坂を上がった伝通院の山門前を奥に入った福寿院の中にある。千鶴は入口で教員に暫く用事で休むことを伝え、午前中で家に帰らせてもらうように頼んだ。校舎の開山堂から出ると、突然剛志が駆けだした。山門のそばに猫の坊やが日向ぼっこをするように佇んでいる。千鶴は、「待ちなさい」と声を掛けたが、剛志はケラケラと笑いながら猫を指差して走っている。猫は気配に気づいたのかこちらに顔を向けた。きらりと光る翡翠色の眼。口角を上げたように駆け寄ってくる子供を見ると、一瞬鼻先をあげて「こっちだ」というように合図した。千鶴は背中の千桜を後ろ手に抱えるようにして走りだした。
「待って、とまって」
千鶴が呼びかけても、剛志は猫を追いかけることをやめず、どんどん距離が離れていく。山門の前を子供の背中が坂を下っていくのが見えた。千鶴も全速力で駆けた。それにしても剛志の足は速い。小さな草履で飛ぶような勢い。その隣を胡桃色の毛の塊が飛び跳ねるように動いている。千鶴は声をあげることが出来ないほど息が切れてきた。
道の先のムクの大木の根本で茶色の尻尾が飛びあがり、向こうから荷車をひく人夫が足を止めた。千鶴は子供が車の下敷きになったかと思い、一瞬血の気が引いた。人足は振り返るように、地面を飛び跳ねていく猫と子供の行く先を見ている。千鶴も転がる勢いで車のそばをすり抜けた。道の先にある石積みの柱が建った門の中へ子供と猫が入って行く。
「これ、そっちではありません」
家に向かう道を通り過ぎていく猫たちを千鶴は引き留めようと必死に叫ぶ。子供は小さな寺の境内の中に入り本堂に向かって行った。手水場の前の木陰で千鶴は一息つき、「つよしちゃん」と子供の名前を呼んだ。静かな境内に心地よい風が吹き、さっきまでの喧噪とはちがう静寂に包まれる。本堂の階段の下に隠れていると思った子供の姿が見えない。境内の小さな石段に子供の草履が一つ裏返っているのが見えた。そっと拾い上げて、石段の下を覗き込んだ。苔むした石がぽこぽこと繋がる向こうに赤い胸掛けをした小さな石の狐がこっちを見ている。朱色の鳥居が連なる先には薄暗い祠が見えた。ふと見ると、剛志の草履がもう一つ、石段の一番下に落ちていた。背中の千桜が落ちないように後ろ手で支えながら鳥居をひとつひとつくぐり抜けていく。草履を拾ってしゃがんだ先には、石の大きな狐が二匹、向かい合うように座っていて、奥に石の台とお供えものが置かれているのが見えた。薄暗い祠の中はひんやりと冷たい空気に満ちていて、千鶴は祠の影に子供と猫の坊やが隠れていると思い、小さな声で呼びかけた。
「つよしちゃん、ぼうや、出てきて」
祠の中は物音ひとつせず、石の狐がじっとこちらを見ている。千鶴はしゃがんで石の台の下を覗いてみた。霊窟といわれている洞窟の入り口は一尺ほどの幅しかなく、中は空洞で真っ暗だった。背中の千桜がむずがるので、地面に手をついて立ち上がりあやしながら、祠の裏にまわってみたが誰もいない。千本鳥居を引き返し何度も子供の声を呼んだが、さわさわと木陰を通る風の音しかしない。
千鶴は石段を子供の名前を呼びながら駆け上がっていき、もう一度本堂の裏をぐるりと探しまわった。脇の建屋から出てきた影に呼び留められて、千鶴は飛び上がるほど驚いた。
「どうされましたかな」
そこには、墨染の絽を纏った僧侶が立っていた。千鶴は慌てて会釈をして挨拶をした。
「子供が境内に入ってしまって、追いかけたのですが姿がみえなくて」
僧侶は寺の住職らしく、建屋の中に声をかけて小さな小僧を呼びだした。
「境内の中を隈なく探してさしあげなさい。裏の通りの門が閉めてあるか確かめるように」と注意をした。千鶴はもう一度、小僧といっしょに千本鳥居まで石段を下りていき、祠の前を通りすぎると、案内されるままに奥の石段を登っていき、裏門の木戸が施錠されていることを確かめた。それから境内の隅々を探してみたが、子供の姿はなく本堂の前で心配そうに立つ住職の所に戻った。
「和尚さま、お穴さまの入り口に子の草履が落ちていたそうです」と小僧が息を切らしながら報告をすると、ご住職はそうかそうか、と返事をして頷いている。
「お稲荷さまが必ず見つけてくださる」
住職は千鶴に優しく励ますように笑いかけた。
「ご安心なさい。境内の裏門も閉まっていた。お穴さまの祠はこちらのご本尊の澤蔵司が狐の姿になって戻っていった場所でしてな」
「子供が入るにも小さな穴ですから。かならず戻ってくるでしょう」
千鶴はこつぜんと消えた子供と猫の坊やのことで気が気ではなく、どこか呑気な和尚の言葉を上の空で聞いていた。
「お穴に迷い込んだ者は、昔から元に戻ると伝わっています」
「どこにお住まいかな」
千鶴はぼんやりと、富坂二丁目の診療所だと答えた。
「お近くですな」
「見つけたら、すぐに知らせましょう」
住職は千鶴を見送るように小僧に伝えると本堂の階段を上がって行った。後ろ髪をひかれるような思いで何度も振り返りながら、千鶴は見送る小僧に会釈をして診療所に戻った。玄関から中庭にまわっても、剛志の姿も猫の姿も見えない。何度も子供の名前を呼んでみた。背中の千桜はいつのまにか眠ってしまったらしく、襷を解いて畳におろすとくったりと仰向けになったまま寝息をたてている。千鶴は着物の袂から剛志の草履を取り出して、縁側の上り台石の上に揃えて置いた。その時、ひひーんと神夷の嘶く声がして、ぱかぽこと門から馬の足音が聞こえてきた。千鶴は、中庭から厩の方に走って行った。
斎藤が制帽を被ったままゆっくりと神夷の手綱を引いて歩いてくる姿が見えた。馬上の鞍の上に剛志が跨っている。馬の足元には猫の坊やがふさふさの尻尾を揺らしながら、のっそのっそと歩いていた。
「剛志ちゃん」千鶴は駆け寄った。
「ただいま戻った。坊主が中務の屋敷の庭から飛び出してきた。なにゆえ裸足であのような場所に居るのか不思議でならん」
斎藤は鞍から子供をおろして千鶴に手渡した。子供は千鶴に強く抱きしめられてキョトンとしている。
「どこに行っていたの、かあさま生きた心地がしなかった」
千鶴はへなへなと地面に崩れるようにしゃがみ、もう一度子供をかき抱くとわんわんと声を立てて泣き出した。神夷が動こうとせず、馬首を下げて千鶴をなぐさめるように鼻を寄せている。斎藤は「千桜は」と問うても、千鶴は泣き止まない。剛志は黒い目もくりくりとさせたまま、神夷と斎藤の顔を見上げている。
「兄様もいなくなって、剛志ちゃんまでいなくなったら、かあさま生きていけない」
「どうして、いなくなってしまったの」
「ぼうやもいなくなって、どうしちゃったのー」
泣きじゃくる千鶴の声で、剛志の目にも涙が滲んできた。だんだんとへの字に口が曲がって、うわーんと泣き出した。斎藤はやれやれという調子で、馬の手綱を外し手軒下の柱に繋ぐと、千鶴から子供を抱き上げて、千鶴の手を引いて立ち上がらせた。
「坊主は無事だ。猫と遊んでおった。なあ?」と剛志に語り掛けると、子供はべそをかきながら頷いた。千鶴は涙でぐしゃぐしゃの顔で斎藤と子供を見上げると「だって」といってまた泣き出した。斎藤は千鶴の肩を抱くようにして中庭にまわり、縁側で子供をおろすと、千桜が居間で眠っている姿を確かめた。また厩に戻ろうと踵を返した背後で、千鶴が「これ、足が汚れています。こっちへ来なさい」と叫んでいる声が聞こえた。
******
千鶴が昼餉の仕度をしている間に、斎藤はさまざまな証書を出して整理した。文箱に警察手帳をしまい丁寧に机の引き出しにしまった。床の間の前には拡げた風呂敷の上に夏物のズボン下や肌着、靴下が畳んで置いてあった。子供の下着も一揃え。戦役に出た時の斜め鞄が二つ。いつの間にか新品のように繕われてあった。押入れから行李を引っ張りだし、中から短刀と打刀を取り出した。白鞘から出して刀身を吟味するように確認した。柄や鍔も桐箱から取り出して、慎重に取り付けて鞘に納めた。打刀を二振り。短刀を一揃え。丁寧に刀袋に仕舞い行李の一番上にそっと置いて、押入れにしまっておいた。薄暗い部屋から明るい居間に戻ると、千鶴が千桜のおしめを替えていた。中庭で猫と一緒に駆けまわっている次男の姿が見える。植木の枝をまとめて縛ったものが積み上がった庭を見て、庭づくりに取り掛かるのは帰って来てからになると思った。このような状態で遠方に出掛けて、いつ戻って来られるかも定かではない。陽の光の中で駆け回る子供は数日前の怯えた様子はみせず、無邪気に遊び回っている。平穏無事だ。斎藤は庭に降り立ち、ゆっくりと母屋を一周して異変が起きていないかを確認した。建屋には一切燃えた様子も、傷んだ箇所もなかった。風間が言っていた通りだ。診療所の母屋には特別な結界が備わっているのだろう。千鶴の居る結界、東国の鬼塚と八瀬の結界。この三つは鬼の世界の中で最も強力に護られるものだと言っていた。斎藤には見えない力。庭に現れた鬼火は母屋を襲わなかった。今はそれを信じたい。
「父上、ただいま戻りました」
門から走ってきた長男の豊誠が斎藤に挨拶した。ガラガラと勢いよく玄関をあけて家に上がると、帽子を脱ぎ、鞄を放り投げて袴を脱いで縁側から庭に飛び降り、一番大きな御影石の上に降り立った。弟と猫が走ってくると、身をひるがえすように飛び上がってモチの樹の一番高い枝に掴まった。剛志は「にーさまー、にーさまー」と両手を口にあてて一生懸命、木の下から呼んでいる。猫は幹の途中まで飛んでは落下を繰り返している。千鶴がご飯ですよと居間から呼ぶと、豊誠は宙を一回転してから積まれた枝の上を跳びはねて、そのままの勢いで縁側に上がって戻った。斎藤は千桜を抱えたまま大きな膳の前に座わり、皆で揃って昼餉を食べた。
千鶴は、一通り千桜に軟飯を食べさせると、乳やりを始め、やっと心持が落ち着いたのか、斎藤に朝に子供を連れて尋常小学校へ行った帰りに、剛志と猫の坊やが坂の途中のお寺の境内で忽然と姿を消したことを話した。
「あそこは私が小さな頃に行ったきり何年も入ったことがなくて」
斎藤に「どこだ」と聞かれて、千鶴は「善光寺の隣にあるお稲荷さまです」と答えた。
「澤蔵司稲荷か」
「そうです。あの薄暗い、お穴さまのお稲荷さんです。石段に剛志の草履だけが残っていて」
「あの不思議な洞窟に、ほんとうに入っていったのかしら」
「ご住職さまは、お稲荷さまがきっと戻してくださるって云うんです」
「言い伝えでご本尊が狐の姿でお穴さまに戻っていったんですって」
「狐の澤蔵司が伝通院に居たというのは本当らしい」と斎藤が応えた。
「俺が戻る道で、水道橋を渡って勢いよく駆けだしたところを、中務屋敷から坊主が飛び出してきた」
「神夷が前足をあげて跳ね上がったゆえ、よほど驚いたのだろう」
「水道橋で見つけたんですか」
千鶴は驚きの声をあげた。
「中務屋敷だ。壱き坂の通りの傍だ。今は寄合町だが、古くは中務が住んでおった大きな屋敷だ」
斎藤は畳の上を指でなぞりながら、子供を見つけた場所を千鶴に教えた。
「まあ、どうやって、あんなに遠くまで。人さらいに連れていかれたのかしら」
「猫と一緒に飛び出してきた。裸足で膝も顔も泥だらけになっておった」
千鶴は信じられないという表情で聞いている。
「澤蔵司の洞窟が坂の下の稲荷に繋がっているやもしれん」
「中務屋敷のなかにも小さいが稲荷の祠がある。俺は、わらべの頃にあの屋敷の中に入って祠の供え物をくすねたことがある」
「まあ」
千鶴は目を丸くして口を開けている。暫く考えこんだあと。
「豊誠の学校から出て、すぐに走ってお寺の中に入っていったんですもの。こどもの足で水道橋まで。いくらなんでも。お穴の中に入って、それじゃあ狐につままれてってしまったのかしら」
「坊主は猫と走ってきたと言っておった」
「つよしちゃん、ぼうやと走っていたの?」
子供はご飯を食べながら、頷いた。
「お寺の赤い鳥居、きつねの穴の中に入っていったの?」
子供は大きく頷いた。
「かあさまが呼んだの聞こえた? つよしちゃんって」
子供は首を横に振った。
「ぼうやも一緒に、穴の中にはいったの?」
「うん」
「こわくなかったの? ぼうやは?」
「はしってった」
「つよしちゃんも走ったの?」
「うん」
「穴から出て、とうさまにあったの?」
子供は頷いた。
「父さまも神夷も、たいそうびっくりされたって。つよしちゃんが裸足で飛び出してきたから」
子供は「かむいにのった」と答えた。
「神夷に乗せてもらって帰ってきたのね」
「うん」
千鶴はご飯を頬張っている子供の頬を愛おしそうに撫でた。そして、お寺のご住職に子供が無事に見つかった事を知らせに行かなければと斎藤に云って、再び千桜のおしめを替えて抱き上げた。斎藤は食事を終えると、再び出掛ける仕度をして、神夷に跨って出掛けて行った。千鶴は豊誠が庭で弟と妹を相手に遊んでいる間に、片付けと夕餉の仕度を済ませて洗濯物をとりこみ、坂下に豆腐を買いに走って戻った。奥の部屋に畳んでおいた斎藤と長男の下着を、それぞれ風呂敷に分けて包み、大きなカバンに入れ、小さな巾着の中に常備薬や包帯、晒しを入れて内物入にしまった。毎年夏に西国を訪れる時とは違い、着替えは洋服、下着、レキションと靴下を用意した。西南の戦役に警視庁徴募隊として招集された斎藤を送り出した五年前と同様に全ての持ち物に名前を縫い付けた。一通りの荷物の準備が終わると、千鶴は放心したように暗い奥の間で独り座っていた。襖の衣文掛けにかかった斎藤の上着を見ていると、不安と家族が離れ離れになる悲しみが押し寄せてきて独り涙を堪えていたが耐えきれなくなり、最後には畳に突っ伏してさめざめと泣き続けた。
*****
斎藤が戻ったのは夕暮れ時。神田に立ち寄り飯田屋の主人に手入れを頼んでいた打刀を持ち帰った。早めの夕餉を皆で食べた後に沸かした湯に浸かり子供と一緒に髪を洗い、湯上りの晩酌も控えて早くに子供を寝かしつけた。
「話をしておきたい事がある」
片付けを終えた千鶴に、斎藤が居間に正座して告げると。千鶴はゆっくりと斎藤の前に膝をつき正座した。
「風間から聞いた話だ」と、前置きをして斎藤は静かに語り始めた。
「西の果ての海には、結界がとどかぬ果てがあるそうだ。日の本のさいの果てだと言っておった」
「鬼火はそこから発生しているらしい」
「風間の一族は火と相性が悪く。風が炎を煽り鬼火に周りを巻き込む」
「火と相克する水の特性をもつ東国の鬼が唯一、鬼火を鎮火できるそうだ」
「豊誠はその力を持っておる」
千鶴は目を見開くようにして聞いている。口は閉じているが両の目に涙が溜まっているのが見えた。
「俺も豊誠と共に行き、鬼火を消す」
斎藤は己の決心を語った。
「決して、俺の前には行かせぬ。だから心配はするな」
ぽろぽろと涙をこぼす千鶴に、斎藤は静かに告げた。
「俺が居ない間、決して子たちと離れぬように」
「そなたと同じだ剛志と千桜にも東国の鬼の力が備わっておる。」
「この家の母屋には東国の鬼塚と同じ強い結界が備わっているそうだ」
「だから母屋に鬼火は襲ってはこない。安心しろ」
「だが、剛志がもし、何かに怯えるような様子を見せたら、鬼火が庭に出るやもしれぬ」
「決して母屋からでてはならん」
「わかったな。子たちと母屋の中で動かずに守るように」
斎藤は膝を寄せて千鶴の手をとった。千鶴の顔を上に向かせ頬に流れる涙を指で拭った。
「鬼火が剛志の目に映っても、あんずることはない」
「あれは、境鬼通という特別な力だそうだ。剛志はまだ起きてはおらぬ先が見える」
「鬼火が現れるのが見えておるのだ」
「怯える必要はない。傍について落ち着かせてやればよい」
「そなたが傍にいれば子たちは守られる。よいな?」
両の頬を包み込むようにして自分に向けると、千鶴は「はい」と返事をした。声にならぬ様子で千鶴は振り絞るように
「必ず無事に戻ってきて」と云った。
頷いた斎藤は深く千鶴に口づけた。泣き続ける千鶴を宥めながら、どんなことをしてでも、最果てから戻ろうと心中で誓った。
千鶴のすすり泣きがいつの間にか止み、中庭から温かな風が部屋の中に吹き込んできた。斎藤の優しい囁き声が千鶴の耳に響いた。
「総司の塚を大事にしていろ」
「かならず、総司がついておる。安心しろ」
斎藤は、縁側で丸くなって寝ている猫の坊やを見て微笑んだ。そしてゆっくりと千鶴の手を引いて抱き寄せた。千鶴は斎藤の胸に頬を寄せて目を瞑った。背中を優しく撫でるように擦られながら、行灯の火が消えるまでずっと二人は無言のまま抱き合って過ごした。
*****
翌朝、早くに診療所に箱馬車がやってきた。逓信省馬場の山形が斎藤一家の為に特別に手配をしてくれたものらしく、馬丁は丁寧に手荷物を全て荷台に積み上げて家族全員を車中に乗せると、早馬を走らせるように帝都を横切り、半刻もしないうちに芝の港に到着した。長男は待ちきれないように、馬車から降りると船着き場に駆けていく。斎藤は荷物を全て運びだし、居合わせた人足に頼んで小さな荷車に載せると、その上に次男を抱き上げて座らせた。そして千鶴が大事そうに抱えた刀袋を預かって肩に掛けると、ゆっくりと船着き場に歩いて行った。
日が昇り辺りは明るい。長男は大きな刀袋を二本交差させるように背負い、千鶴たちに向かい手を振っている。傍に土方とお多佳の姿が見えた。傍らに美禰子が豊誠に手を繋がれて一緒に手を振っている。斎藤たちは、見送りに来た土方一家に丁寧に頭を下げて挨拶した。
「船乗りたちが言っていた。今日は凪だそうだ」
土方が微笑みながら斎藤に話しかけた。
「船の手配をどうもありがとうございます」
「俺も、こっちで仕度が済んだら向かう。航路はなんとかなるだろう」
「昨日言い忘れた。原田がこっちに戻っている。報せがあった」
斎藤は久しぶりに原田左之助が日本に戻っていると聞いて、嬉しく思った。
「左之に、よろしく伝えてください」
「ああ」
汽笛が鳴った。千鶴は我慢が出来なくなり、長男に縋りつくように駆け寄り、強く抱きしめた。
「無理はいけません。とうさまの言いつけを守って」
「はい」
元気に返事をする子供とは反対に千鶴の顔は悲しみに歪んでしまう。
「いってくる」
斎藤の力強い声に頷きながらも涙が止まらない。強く抱きしめられた千鶴は、耳もとで「必ず戻る」という夫の声をきいて、ただ首を縦に振るだけだった。涙で滲む目の前で、ゆっくりと斎藤と豊誠が背を向けて船に乗り込んでいく。背中をさするようにお多佳が千鶴を支えて隣に立った。お多佳の目にも涙が見える。白いレースのハンカチーフをお多佳が一生懸命振っている。船の甲板から豊誠が手拭を振っている。汽笛が再び大きく鳴った。ゆっくりと動き始めた客船を、千鶴たちはずっと港を抜けて遠くに小さくなるまで見送った。お多佳は、千鶴が心配だからと小石川まで美禰子と一緒に戻り、午後遅くまで過ごしてから空の家に戻っていった。
そして夕暮れ時、千鶴はがらんとした居間から縁側に降り立つと、中庭の隅の一角にゆっくりと歩いていった。子供たちが供えた小さな花が総司の塚の前に置いてある。周りの雑草を抜いて、綺麗にしてからしゃがみ綺麗に積まれた墓石の前で手を併せた。
「沖田さん、どうか一さんと豊誠を御守りください」
そして、いつも長男が宙にえがく呪文を唱えた。
シカクインマルマルサンカクコジシカ
クインマルマルサンカクコジ
シカクインマルマルサンカクコジ
つづく
(2026/05/03)