小説 - 斎千 - 濁りなき心に

初午

濁りなき心に 2

 雪村千鶴が屯所で預かりの身になって二月が過ぎた。斎藤が稽古に向おうと離れから母屋の廊下に向かっていると、千鶴が駆けて来た。

「斎藤さん、よかった。今隊服をお持ちしようと」

 斎藤は畳んだ羽織を受け取った。その上には綺麗に畳まれた襷も載っていた。数日、霙交じりの冷たい雨が続き洗濯物が乾かず、千鶴は火熨斗をかけた隊服を急ぎ持って来たという。斎藤は礼を言った。千鶴は部屋から出て来た藤堂平助にも隊服を渡した。

「ありがとう。まだ温ったかい」

 そう言って、嬉しそうに「へへへ」と平助は笑った。

「今日は初午だから御揚げを煮てお稲荷さんを作ります」

千鶴は踵を返して廊下を走って行った。

「あとで手伝ってやるよ」

 平助が声を掛けるように言うと、千鶴は振り返って会釈してから走っていった。

 斎藤は隊服を置きに部屋に向かったが、平助は渡り廊下で隊服に顔を埋めたまま立っている。

「いい匂いがする」

 平助は斎藤に、「あの子が洗濯すると、いい匂いがすんだ」と告白するかのようにいうと、斎藤は息を止めたようになってじっと立ち止まった。

「甘い、なんともいえねえいい匂いだ」

 平助は微笑みながら再び隊服の匂いを嗅ぐと、「千鶴の匂いだ」といって自室に向かって歩いていった。斎藤も自室に戻った。そっと手に持った隊服の匂いを嗅いだ。甘い香り。まだほんのりと温かい。雪村の匂い。襷にも残り香がしていた。それも手にとって匂いを吸い込んだ。不思議だ。雪村が扱うだけで、洗いものに優しい香りが漂う。

 俺だけが知っていると思っておったが。

 斎藤は、さっき廊下で見た平助の恍惚とした表情を思い出した。平助はあからさまな奴だ。洗濯物の香り、雪村の髪から香る匂い、すれ違いざまに、甘い匂いがする。だが、誰にも言えずにいた。そうか、平助も知っていたのか。そんな風に思いながら、部屋からでて道場に向かった。

 勝手口から台所で平助が炊事を手伝う姿が見えた。竃の前で大きな鉄鍋をゆすっている。

「胡麻は炒れたぞ、千鶴」

 張り切って声を掛ける平助は、千鶴に指示されて大皿の上に炒りたての胡麻を広げた。斎藤が入口から覗きこんでいるのを知らずに、二人は仲睦まじく鍋を一緒に流しで洗っていた。

「ありがとう、平助君。あとは全部、私出来るから」

「いいって、いいって」

 平助は、稽古をそっちのけで炊事を手伝う気でいるようだった。斎藤は、そのまま道場に向かった。それから半刻、みっちりと隊士たちに稽古をつけた。平助が途中で加わって、仕合形式の打ち合いを行った。稽古の後に汗を拭っていると、巡察の当番が急遽変更になったと左之助が声を掛けて来た。平助は、慌てて十番組の巡察に一緒に出て行かなければならなくなり、そのまま母屋に向かって走っていった。

 斎藤は、汗が引くのを待ってから長着を着直すと、母屋の廊下に向かった。ちょうど、お勝手口を通ろうとすると、廊下に千鶴が出て来た。

「お疲れ様です。斎藤さん」

「稽古終わられたんですね」

「ああ」と答えた斎藤に、お茶を煎れましょうかと千鶴は尋ねたが、斎藤は水を一杯飲みたいと言って、千鶴と一緒に台所に入って行った。竃の大鍋から湯気が立って、いい匂いが土間に漂っていた。千鶴が水瓶から湯飲みに水を入れたものを渡すと、斎藤は立ったまま一気に飲み干した。

「礼をいう。いい匂いがしているな」

「はい、お揚げを煮ています」

 千鶴は湯飲みを受け取ろうと手を差し出したが、斎藤は「いや、いい。俺が片付ける」と言って流し台の前に立った。千鶴は、大鍋の落し蓋を開けて、菜箸を持って鍋の中を覗きこんでいる。斎藤は、その隣で湯飲みを洗っていると。千鶴が小さな取り皿に御揚げを載せたものを斎藤に差し出した。

「お味見、してもらえませんか」

 斎藤が湯飲みを伏せて手を拭こうと手拭を探していると。

「お口を開けてください」

 と言って千鶴は小さく切った揚げを菜箸で斎藤の口元に運んできた。小さな手を添えた御揚げが口元の近くに来た。斎藤は急な事で驚いた。目の前に御揚げを持って千鶴が背伸びをするようにじっと下から覗き込んでいる。小さな手の先が、斎藤の顎に触れていた。

 どきどきした。

 千鶴は、嬉しそうに御揚げを斎藤の口の中にそっと入れた。甘い。美味い。柔らかくて、美味い。直ぐに揚げは斎藤の口の中から消えていった。

「美味い」

「よかった。甘過ぎないですか」

「いや、ちょうど良い」

「醤油辛くないですか」

「いや、ちょうど良い」

 千鶴は「良かった」と言って、また大きな塊を斎藤の口元に持って来た。もう手を拭き終わっていたが、「あーん」と千鶴に云われるままに口の中に入れて貰った。恥ずかしい。とてつもなく恥ずかしい。

「……うまい」

 嬉しそうな顔で覗き込んでくる千鶴と眼を合わせるのが恥ずかしいが、やっとそう言えた。耳まで紅くなってしまっているのが自分でも判った。千鶴は大鍋の中を菜箸でつつきながら、「でも……」と呟いている。

「さっき、お雅さんが『なんで、こないに真っ黒にしてしまいはるの』って……」

「真っ黒でしょうか?」

 千鶴は斎藤に尋ねた。斎藤は、千鶴の傍に立って鍋を覗いた。

「俺は、そうは思わぬ。江戸で食べていた稲荷の色はこんなものだ」

「私、江戸では黒砂糖が手に入ったら、お醤油と御揚げを煮ていました」

「父さまは、甘辛い御揚げが好みで……」

「俺もそうだ。飯は酢がきいたのがよい」

「はい、酢飯はそのほうが。胡麻も沢山」

「ああ、胡麻は多ければ多いほど良い」

 千鶴は嬉しそうに斎藤の顔を見上げていた。「胡麻をたっぷりと入れてお作りします」と言って、隣の竃の上の飯炊き窯の火加減を確かめている。斎藤は、しゃがみ込む千鶴のことをぼーっと立ったまま眺めていた。

「お昼に、お出ししますね。お吸い物と」

 千鶴は立ち上がって、斎藤に笑いかけた。そして、ふと気が付いたように斎藤に近づいた。懐から手拭を出して、小さく畳んだ端を持って、斎藤の胸に手を添えるように背伸びをすると、斎藤の口元をそっと拭った。口の両側に稲荷のたれが付いたままになっていると、笑っている。

 甘い、やさしい香り。

 手拭と千鶴から漂う芳香に、また胸がどきどきした。身が固まってしまって、後ろに下がるべきかどうしようか迷う。千鶴は、「とれました」と言って、丁寧な仕草で手拭を懐にしまうと、また新しい湯飲みに水を汲んで斎藤に差し出した。

「お忙しいところ、お留め立てしました」

「斎藤さんに、お味見してもらったので。これで安心して出せます」

 頭を下げて礼をいう千鶴に、斎藤は黙って頷いた。

 昼餉に大量に稲荷ずしを並べた大皿が並べられ、幹部の皆は喜んで食べた。平助は十五個、土方は十二、総司も十個すすんだ。斎藤は、二十個をぺろりと食べて、千鶴を喜ばせた。

 その日の午後、斎藤は伏見への巡察に出掛けた時に、初午の「しるしの杉」を特別に千鶴の為に買って帰った。千鶴は大層喜んで、部屋の柱に飾り毎日手を併せるようになった。青杉の穂の香は、どこか清廉とした斎藤を思わせるもので。斎藤から香る匂いと似ていると、いつも千鶴は思っていた。

****

桃花の宴

元治元年三月

 昨年秋頃より体調不良で臥していた松平容保が京都守護職に復帰した。前月に守護職に福井藩主が就くことが決定し、新選組は再び所属先が曖昧になりだした。この事を危惧した局長の近藤は会津藩下に属することを幕閣に歎願上書した。今月に入り改めて隊の所属が、容保公配下となる内定が決定し、近藤を始め土方や新選組幹部は悦びもひとしおだった。

「なに? 清水寺?」

「ああ、これから皆でお礼参りに行くんだとよ」

「そのあとは、内定祝いに祇園に直行だ」

「やったあ」

広間から廊下に出た藤堂平助と永倉新八が騒いでいるのを巡察から戻ってきた原田がききつけた。

「今日は源さんが宴の手配やなんか、全て引き受けたってよ」

「そうか」

「土方さんは後から来るから、俺等は陽が高い内に徒歩で清水寺に向かうんだって」

原田は「わかった」と返事をして、隊務報告に土方の部屋に向かった。土方は忙しそうに文机の前に座って書付をしたためていた。巡察の報告を短く済ませた原田は、槍を部屋に置いてから大小を差して玄関に向かった。既に井上源三郎は総司と一緒に屯所を後にしていた。

「源さん、やたらと張り切ってんだ。二軒茶屋に部屋とったとか云ってさ」

「そいつは珍しいな、土方さんも随分ご機嫌だった」

「山南さんも具合はいいみたいだし、今夜はゆっくり呑めるな」

と、平助が嬉しそうにつぶやいた。山南は今年の一月に大坂に出向いた際、商家を襲った強盗との乱闘の末、左腕の肘から手首にかけて刀傷を負った。命に別状はなかったが、骨まで達した傷は深く、手首から先の感覚をほぼ完全に失ってしまっていた。

「山南さん。俺は久しく顔を見てねえな」

「千鶴がおこわを炊いて山南さんに食べてもらうって」

「精がつくからって」

「千鶴はよくやってんな」

原田は感心するように応えた。

「いや、俺は聞いたぞ。あの子が膳を運んで行っても、山南さんはそのまま突き返すってな」

「なんだ、具合が悪いんじゃねえか」

「そう急によくなるってこともねえだろうよ」

 新八が溜息をついた。

「左手で箸も持てねえんだから……」

「箸は右手で持ちゃあいいだろ。なにも飯を突き返すことはねえ」

 原田は憤っている。

「千鶴はどうしてんだ?」

「千鶴? ずっと台所にいたよ。今夜ははじめ君が屯所に残ってるって」

「そうか、斎藤が居るなら大丈夫か」

 原田は安心した顔で微笑み、三人は清水寺への道を急いだ。

*****

 桃花の宴だと云って、まだ明るい内に土方は近藤と一緒に屯所から出掛けていった。斎藤は千鶴を手伝おうと、自室に刀を置き隊服を脱いで台所に向かった。既に箱膳に食事が用意したものが置いてあった。

 白おこわ、赤飯、目刺し、青菜のお浸し。

 千鶴はへっついの前で、まな板から厚揚げの切ったものを鍋に入れていた。斎藤が声を掛けると、千鶴は湯飲みに鉄瓶から白湯を注いで差し出して来た。

「お疲れ様です」

「今日はみなが出払っている。夕餉はここでいい」

「はい、先に膳を運んできます」

「山南さんの部屋へ運ぶのは俺が行こう」

「はい、それでしたら、今お漬物を用意します」

 千鶴はてきぱきと流しの横の棚から壺を取り出し、奈良漬けを蓋にとって水で流すと、手際よく薄く切っていく。斎藤はその間、鍋に味噌をとき入れて味を調えた。小鉢によそった漬物と味噌汁を膳に並べると、蓋をして斎藤は山南の部屋に運んで行った。

「山南さん、斎藤です」

 廊下から声を掛けると、「どうぞ」と山南の声がした。斎藤は、立ったまま障子を開けて中に入った。

「夕餉をお持ちしました」

「ありがとうございます」

「今日は、皆さんお出かけのようですね」

「はい、清水寺にお礼参りに」

 斎藤が箱膳を山南の前に置こうとした時、山南は前へいざってそれを片手で受け取ろうとした。

「ありがとうございます。折角持ってきていただきましたが、今夜はここでは頂かずに」

 山南の伏せた瞳が眼鏡の奥に見えた。斎藤は箱膳を持ったまま何かを言おうと口を開けたが、動かない山南の左腕が気になり膳を放すことができなかった。

「広間で頂きましょう」

 山南が斎藤の顔を見上げるように云うと、ゆっくりと立ち上がった。斎藤が見ている前で山南は左腕を庇うように袖なし羽織に袖を通し、片手だけで器用に前紐を結んだ。

「お手を煩わせます」

 山南はうやうやしく頭を下げて、斎藤と一緒に部屋を出た。そのまま広間に向かい、斎藤は箱膳を置き、お勝手に千鶴を呼びに行った。千鶴はすでに夕餉を勝手口の板の間に並べていたが、斎藤に言われるままに広間に膳を運んで行った。薄暗い広間に山南が座って待っている姿をみて、千鶴は会釈をした。そして、行灯を灯し三人で静かに食事を始めた。

「紅白のおこわですね」

「はい、お雅さんが、小豆を分けてくださいました」

千鶴は山南の質問に応えた。

「おめでたい日であることに変りありません」

「わたしはこんな身体で出掛けられませんが、幕府より内定を頂いた事は喜ばしいことです」

 山南は千鶴がおむすびにしたおこわを手に持って微笑んだ。千鶴は山南の笑顔を久しぶりに見た気がして、思わず箸を置いて「はい」と元気に応えた。斎藤は静かに小さく頷いて、黙々と箸を進めている。山南は静かに右手だけを使って食べていた。怪我をして以来、千鶴は初めて山南が食事をする姿を目にした。よかった。食欲をなくされていらっしゃらない。

「土方さんが出掛ける前に張り紙のことを知らせてくれました」

「福井藩主の松平慶永公は、以前より評判は芳しくありません」

 山南は斎藤に向かって静かに話を続けている。千鶴は山南が何のことを話しているのかわからないまま、聞き耳だけをたてて箸を進めていた。

「張り紙は今朝東町奉行所の役人がとりはがしを命じ、下手人を追っているところです」

 斎藤が静かに答えた。

「福井藩主のことは、わたしたちが全く関係がないとはいえないことが残念です。ですが新選組の風評が広がることは防がなければなりません」

「はい」

「いずれにしろ、松平中将様が京都守護職にお戻りになられたことは喜ばしいことです」

「新選組はあくまでも会津藩お預かり。中将さまのもとで幕府に協力する。それが近藤さんや土方さんが目指されているところでしょう」

 斎藤は黙って頷いている。山南は食事を終えた様子で、箸を置いて湯呑みの白湯を飲んだ。

「中将様がご回復なさった。一時は無理を押して登城されていたと聞きます」

 山南が語ることに斎藤も千鶴も大きく頷いた。会津藩主松平容保公が長い患いから平癒したことは本当に喜ばしい。

 ——わたしもいつまでも部屋に引きこもってばかりではいけませんね。

 山南は湯飲みを膳に戻すと、斎藤と千鶴に顔を向けて微笑んだ。山南は、「たとえ怪我をしていても新選組が立ちゆくように己の役目をこなしていこうと思います」と云って、ゆっくりと頭を下げた。斎藤は背筋を伸ばして膝に手を置いて、同じように頭を下げた。千鶴も斎藤の真似をしてしっかりと頭を下げた。山南は膳を下げることを斎藤たちに頼むと静かに広間を後にして自室に向かい、千鶴は斎藤と一緒に膳を片付けた。

「斎藤さん、ありがとうございます」

「あとは、わたしが片付けます」

「いや、俺も手伝おう」

「ありがとうございます」

 流しの桶に溜めた水に浸けた茶碗を千鶴が丁寧に洗っている隣で、斎藤はへっついに鉄瓶を載せて湯を沸かした。千鶴が手を浸ける桶に湯を注ぐと、辺りに白い湯気がたった。

「とてもあったかいです。ありがとうございます」

 斎藤は小さく頷いた。千鶴は手早く茶碗の水を切ると、台所を片付けてお茶を煎れる準備をした。斎藤が竈の炭に蓋をして、勝手口の戸締りも済ませた。そこへ母屋の入り口からお雅が声をかけてきた。

「あれ、ここに居てはりましたか」

「これ、よろしかったら。頂きもんですけど」

 懐紙に包んだ落雁をお雅は斎藤に手渡した。

「ありがとうございます」

「近藤さんに明日改めて、うちの主人からお祝いのご挨拶にいきますよって」

 お雅は丁寧に頭をさげて「ほなよろしゅうに」と云って引き返していった。千鶴は、小さなお盆にお菓子とお茶を煎れた湯呑みを持って、山南の部屋に届けた。

「ありがとうございます」

「雪村君、今晩の祝い膳。ご用意くださってありがとう」

 山南は優しく微笑んでいた。屯所に留め置かれて以来、千鶴は山南に食事の準備の礼を言われたことは初めてだった。紅白のおこわをお祝い膳と云って貰えてことも嬉しく、千鶴は思わず頭を深く下げて「ありがとうございます」と礼を言い、浮足たったまま、ぱたぱたと走って台所に戻った。斎藤は既にそこには居らず、千鶴は別のお盆にお茶を用意して斎藤の部屋に向かった。

「雪村です」

「入れ」

丁寧に障子を開けた千鶴がお茶を運びいれた。斎藤は、蝋燭を灯した傍で刀の手入れをしていた。

「すみません、お取込み中のところを」

「よい」

「お茶をご用意しました」

 斎藤は刀を手入れしながら静かに頷いた。千鶴は邪魔にならないように、文机の上にお茶と落雁を載せた懐紙を置いて部屋を下がろうとした。

「今日はご苦労だった」

「桃花の宴に出られぬ代わりに、ここで祝いをできてよかった」

「はい」

 桃花の宴。千鶴は心の中で繰り返した。屯所の皆さんがお出かけになられたのは、お祝いの宴のため。松平中将様の御病気が平癒されたこと、京都守護職にお戻りになられたこと、新選組が中将様の配下としてもう一度認められたこと。そのお祝い。お雅さんもお赤飯を炊いてお祝いくださった。とても悦ばしい日。山南さんがお元気になられて、以前のように優しく微笑まれていた。

「あんたもゆっくり休めばいい。土方さんたちはきっと明け方まで戻らぬだろう」

「はい」

 千鶴は斎藤が優しい表情で微笑む顔を見た。それはいつか見た道場での表情と同じ。普段は厳しい表情で隊務にあたられ、目線は鋭く物静かゆえに傍に近寄ると緊張する。でも今は違う。今日は嬉しいことばかり。山南さんがお部屋から出られて、広間で一緒に夕餉をとられた。有難うと云われた。そして、斎藤さんが微笑んでいる。

「どうした?」

 ずっと障子を閉めずに廊下で座っている千鶴に、斎藤が顔を向けて訊ねた。千鶴は随分とぼんやりとその場に座り込んでいたらしい。

「いいえ、なんでもございません」

「失礼いたします」

 千鶴は会釈して障子を閉めると、お盆を持って台所に戻った。流しの上に自分用に煎れた湯呑みが置いてあった。冷めていたが、それを自室に持っていってようやく腰を落ち着けた。薄暗い部屋に、明かり取りの窓から月明かりが射している。小さな床の間の柱に挿した桃の花。

「桃花の宴か……」

 千鶴は、心に春の温かさを感じた。

つづく

(2025.11 加筆修正)