濁りなき心に38
慶応三年十一月十四日夜。
斎藤さんが帰ってきた。
千鶴は台所に向かって走りながら、思わず顔が綻んだ。こんなに嬉しい事があるだろうか。ずっと夢に見て来た斎藤が新選組に帰って来た。千鶴は幹部会に呼ばれた総司に付き添って行った大広間に斎藤の姿を見たとき、驚きで目を見張った。斎藤は無表情のままだったが、そんな千鶴を見つめ返していた。
戸棚から斎藤の湯呑みを出して、丁寧に洗うと、お盆に幹部の湯呑みと一緒に並べた。沸かしておいたお湯を注いで、取って置きのお茶を淹れた。大広間に戻ると幹部皆が緊迫した表情で話し合いをしていた。斎藤が東山高台寺より持ち帰った情報では、御陵衛士が新選組壊滅を図り、近藤の暗殺を企てているという。その前に、伊東は幕府山稜奉行を通して新選組に融資を取り付けるつもりでいた。情報の裏は、近藤の所に既に金子の工面の申し入れが伊東より直接文が届いていた事で取れている。土方は、伊東暗殺を決断した。決行は四日後の夜。それから淡々と計画が練られた。
伊東の局長暗殺計画に一番憤ったのは、総司だった。伊東を斬りに僕が行くからと言い張る総司に土方は参加を禁止した。総司の体調は安定せず、ずっと千鶴が掛り切りだった。剥れる総司に、斎藤の部屋が用意出来るまで、暫く総司の部屋に匿う必要がある。御陵衛士の斎藤は新選組の裏切者。そう認識する事情を知らない者の目を避ける必要があった。土方には長い間者働きから戻った斎藤を労う気持ちもあった。総司は納得して、幹部会が終わると大人しく部屋に戻った。
部屋の蒲団に倒れこむようにうずくまると、総司の咳の発作が始まった。蒲団には、枕も敷布も濃い藍の木綿があてがわれていた。千鶴が総司の背中をさすっている。部屋は大きな火鉢が二つも置かれ、異常な程暖かい。斎藤は、羽織を脱いで襟巻きも取った。千鶴は総司を寝かすと、吸飲みで白湯を与えている。暫くすると咳は治った。斎藤は、総司の具合が悪化している事に衝撃を受けた。夏に、街で千鶴と偶然会った時、互いに他人の振りをしながら、暫く一緒に歩いた。人混みの中で、千鶴は独り言のように呟いていた。
「沖田さんは、夕方に水菓子を召し上がって、美味しいとふた切れも。きっと元気になります」
斎藤に総司の様子を知らせたかったのだろう。夏の暑さに参って、食が細くなっているのだろうと思っていたが、千鶴が世話をしていれば大丈夫だと高を括っていた。茫然としている斎藤の元に、千鶴は、布団を運んで来た。どうぞ休んで下さいと寝間を準備をすると。火鉢を突いて、火をおこした。そして行灯を自分の側に持って来て。書物を広げて読み始めた。
「千鶴ちゃんは、僕が眠るまで、ああやって待つから」
総司はそう言うと、布団の中に潜って目を瞑ったまま言った。
「はじめくんも、おやすみ」
斎藤は、促されるまま蒲団に横になった。長い一日だった。高台寺を出たのが三日前。その間、伏見に潜伏した。研ぎ屋の紹介で、街道外れの表具屋の物置で丸二日間隠れた。斎藤が最後に帳簿をつけた時、御陵衛士の金庫の残金はわずか三百両。斎藤はそこから五十両を持ち出し、旅行李だけ下げて早朝に出奔した。高台寺派の捜査網が笊同然なのは、斎藤が一番良く知っていた。たとえ衛士に居場所を突き止められても、伏見に金の持ち出しで出ていれば新選組は疑われる事はない。だが、今後新選組で自分が表に出る事は出来ないだろう。そう覚悟を決めた。斎藤は、明日以降、四日後の暗殺決行まで、何処で剣術の稽古をしようか考えた。
「山南さんが、 夜中から朝方まで道場に居るよ」
目を瞑ったままの総司が呟く。
「はじめくんが戻って来て良かったよ」
そう言って総司は、静かな寝息を立て始めた。千鶴は、火鉢の側から、覗きこむ様にして、斎藤に笑いかけた。
「私はもう暫く起きています。斎藤さん、どうかお休みになって下さい」
そう言って、更に行灯を遠ざけ、灯りを遮る様に背を向けた。
斎藤は、「ああ」と返事をして目を瞑るとそのまま眠りに落ちた。
斎藤は夜明け前に目覚めた。千鶴は火鉢の側で書物を抱えたまま丸くなって眠っていた。通りで、この前の様に風邪もひく訳だ。斎藤は千鶴を抱き抱えると自分の蒲団に寝かせて、道場に向かった。久し振りに顔を合わせた山南は、斎藤の新選組復帰を喜んでいた。斎藤は、羅刹隊が大幅に人数を増員しているのに驚いた。八十名居るという。山南は、もう少し増やしたいぐらいですと言って笑う。夜の巡察を担ってもいいと土方に申し出ているが、許可が下りない。そう言って、山南は残念そうに道場を後にした。
斎藤は道場に残った羅刹隊士達と剣を交えた。
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帰還二日目
陽が上る前に総司の部屋に戻ると、蒲団は既に片付けられていた。相変わらず部屋は春のように暖かい。斎藤は汗で濡れた着物を着替えた。千鶴が朝餉を部屋に運んで来た。食べ終わったら廊下に出して置いて下さいと行って、笑顔のままパタパタと走っていった。お膳には暖かい食事が用意されていた。白米に香の物、豆腐の味噌汁、切り干し大根の煮物、ふわふわ卵。斎藤の卵には九条葱が載っていた。美味い。久し振りに千鶴の用意した朝餉を食べて、斎藤は新選組に戻った事を実感した。高台寺では、麦飯や玄米に一菜がつく程の質素な食事だった。寺に通いで来ている飯炊き女が食事を用意していたが、京の者で無いのか、味付けが食べ慣れないものばかりだった。食卓が質素なのに斎藤は慣れているが、味の合わない食事は辛いと産まれて初めて感じた。総司と向かい合わせで食べるのも気分がいい。今朝の総司は顔色もいい。朝は毎日調子がいいと言って笑っている。
「日中は水攻めに遭うけどね」
「なんだ、水攻めとは」
「千鶴ちゃんが戻ったらわかるよ」
と言って、総司は笑う。
「今朝も壬生まで歩いてお水取りに行っている」
「お水とり? あの湧き水か」
「そう、毎朝。三升を瓶に詰めて帰ってくる」
それを聞いた斎藤が刀を持った。
「迎えに行ってくる」
「駄目だよ。はじめくん、表に出ちゃ行けないって言われてんだから」
「高台寺の連中に見つかると、明後日の計画も水の泡だよ。千鶴ちゃんには軽鴨隊が護衛に付いてるから大丈夫」
と言って総司は腰を上げかけた斎藤を留めた。
日が高くなって、障子の向こうに千鶴の声がした。大きな瓶と湯飲みを持って部屋に入ると、早速水を湯飲みに注いで総司に飲ませた。斎藤にも水を勧める。
「さっき汲みたての湧き水です。どうぞ」
千鶴が笑顔で嬉しそうに差し出す水を斎藤は受け取って飲んだ。確かに、冷たくて美味い水だ。
「お水をたくさん飲むと、身体の外に悪いものが出て行きます。人間の身体は八割が水で出来ています。清涼な湧水で身体の水を全て綺麗にすると、病気も治ります。健常な人はもっと元気に」
「山崎くんが西国から持ち帰った西洋医術の書物に水を飲んで病を治す方法が書いてあるんだって」
総司が説明する隣りで千鶴が頷く。ずっと夜間に読んでいるのが医術書で、総司の咳も発作をすぐに止める事が出来るようになったと言って笑っている。
「水飲むのは良いんだけどね、厠が近いのが難儀」
そう言って総司は蒲団にゴロンと横になった。そうであろうな。斎藤もそう思った。千鶴は、お小水を沢山出して下さいね。排毒されますから、と言って、パタパタと部屋の掃除を始めた。ちょっと、すみません。そう言って、斎藤の肩を持って、畳から畳へ移動させながら、綺麗に拭き掃除を済ませると。
「湿布とお灸を用意しますね」
と言って部屋から出て行った。斎藤は、自分が不在の間に、新しい屯所ですっかり総司と千鶴には新しい生活の習慣が出来ているのだな、と感心した。そして、自分はどこか借りて来た猫の様な。全てに手持ち無沙汰で内心戸惑った。
千鶴は火鉢に鍋を掛けると、総司の隣に蒲団を一組並べて敷いた。千鶴は、斎藤にも灸を据えたいと言う。斎藤は驚いた。俺はどこも悪い所は無い。そう言っても、千鶴は引き下がらなかった。斎藤さんは、随分とお疲れになっている様だ。お灸で楽にして差し上げたい。そう言って笑う。千鶴の屈託のない笑顔に、釣られて斎藤も顔が綻ぶ。総司が、隣りで「観念しなよ、はじめくん」と言って敷布団を差し出すように叩いている。斎藤は総司と並んで蒲団に横になった。
まずうつ伏せになって、肩から着物を剥がれ、首の付け根の大椎に灸を据えられた。其れから背骨に伝って身柱。
「ここは邪気を祓うツボです」
と言って、斎藤の肩を優しく触った。背中の次はお腹にと言って、仰向けにされた。着物を開いて、鳩尾に百草を載せる。千鶴は、斎藤の贅肉が削げ落ちて痩せてしまっている事に心が痛んだ。高台寺では余程酷い生活だったのだろうと涙目になった。鳩尾の次は臍から下にある関元を押さえる。斎藤が、だんだんと頰を赤らめ、狼狽しだす様子を見て、総司がくっくくっと隣りで笑っている。
「何が可笑しい」
斎藤が膨れると、総司が、「そこは、こそばゆいよね。まな板の鯉だよ、はじめくん」と言って愉快そうに肩を震わせている。千鶴は、斎藤が熱がりもせずじっとしているので、処置し易いと礼を言った。それからうわ布団を斎藤に着せて、足三里に灸を据えた。ここは斎藤も旅疲れした時は灸を据えた事があった。じんわりと気持ちいい。其れから、またうつ伏せになって、足の裏にも据えられた。暫く時間を置くから、ゆっくりする様にといわれた。 千鶴は、続けて総司に処置をした。総司は手慣れたもので、目を瞑って気持ちいいと満足そうにしている。総司は、今朝は一度も咳が出てないと言って、千鶴を喜ばせた。
其れから、斎藤は背中に蒟蒻の湿布をされた。なんだ、この心地良さは。斎藤は驚いた。なんとも言えん。腎は全身の疲れを取る、ここを温めると心身が疲労回復する。遠くに千鶴の優しい声が聞こえる。斎藤は瞼が重たくなって来て、寝入ってしまった。千鶴は総司にも湿布をして、二人がぐっすり眠っているのを確かめると、台所へ昼餉の準備に向かった。丁度、三番組隊士が巡察から戻ったところで、伍長が水を飲みにお勝手にやって来た。
「雪村くん、大広間の貼り出しを見た。組長が戻られたって。どこに居られるかご存知か」そっと、隣りに立って尋ねて来た。
「はい、今は沖田さんのお部屋で休まれています。あと一刻程でお目覚めになられます」
伍長は頷くと、嬉しそうに後で御挨拶に伺う、隊士は皆喜んでいる。そう言って勝手口から出て行った。お昼の支度が終わって、伍長と隊士の宮川を連れて、千鶴は総司の部屋に向かった。部屋に入ると、総司はもう起き上がっていた。まだ眠っている斎藤を指差し、静かにと合図をしたが、丁度、斎藤がむっくりと起き上がった。湿布を外して、千鶴は斎藤に背中から着物を着せかけた。
「伍長の伊藤さんと宮川さんが見えています」
と千鶴が背後から話しかけると。
「伊藤か、入れ」
帯を締め終わりながら斎藤が障子に向かって言うと、伊藤達が会釈をして部屋に入って来た。斎藤が振り返ると、二人は正座して、「ご無事の御帰還、誠に喜ばしく」と言って頭を下げた。斎藤も正座して「やっと帰って来られた」と応えた。二人が顔を上げた途端、二人とも目を見開き、みるみる真っ赤になっていった。訝しく思った斎藤は、どうした、と聞いたが。伍長の伊藤は、
「組長、御立派に、なられまして」
そう言い終わらない内に、堪え切れずに吹き出し、宮川と二人で笑い出した。千鶴は斎藤の顔を見上げて、あんぐりと口を開けている。斎藤は、自分の顔を擦ると手が墨だらけになった。その瞬間、障子に向かって逃げようとする総司に飛びかかった。斎藤は、立派な口髭に頰に復帰と書かれていた。取っ組み合いをする総司と斎藤を伍長達は必死に間に入って止めた。騒動が治ると、伍長達は、組長が戻られて安心した。こんなに嬉しい事はないと笑って、部屋を後にした。厠の手水で顔を洗う斎藤に、 千鶴は、ご飯粒を潰して濡らした手拭いに挟んだものを持って来た。これで、頰を擦ると墨は綺麗に取れるという。
「私も、前に寝ている間に、沖田さんにおでこと瞼に目玉を描かれた事があって」そう言って、思い出したようにクスクスと笑う。
「近藤さんや土方さんにまで見られて、あの時は本当に恥ずかしかった。でもこんな悪戯をするのは沖田さんがお元気な証拠です。その時に井上さんがご飯粒で墨が良く落ちるって教えて下さって。お着物についた墨も落ちるんですよ」
そう言って、斎藤の頰を手拭いで押さえる。背伸びをして、斎藤の顔を一生懸命に擦る千鶴を見ていると。斎藤は、千鶴が以前と変わらずに自分の側にいる事を嬉しく思った。
やっと帰って来られた。
黒い大きな瞳を見詰めながら、斎藤は優しく微笑んだ。
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帰還三日目
やはり総司の具合は安定していない。夜中の咳の発作に始まり、高熱を出した。崩れる様な咳が続き、息も出来ない様子で大きな咳が出た時に吐血した。千鶴は落ち着いた様子で、素早く血の付いた寝間着や敷布を交換している。恐らく、毎回必死に隠しているのだろう。朝には、部屋は何もなかった様に片付けられていた。千鶴は壬生に出掛けるのを中止した。部屋を暖め、山崎と投薬を続けている。一旦、容態が落ち着いたところで、斎藤は看病を買って出た。千鶴は、少しだけ仮眠を取りたいと言って、部屋の隅に丸くなって眠った。斎藤は蒲団を敷いて、千鶴をそこに寝かせた。
午後を過ぎて、総司が目を覚ました。ずっと夢を見ていたという。江戸の甲良屋敷の夢で。自分の部屋から道場まで蝋燭が並べて灯されている中、近藤を呼ぶが誰も出て来ない。蝋燭が灯った廊下や玄関を出ても、誰もいない。庭も門の外も蝋燭が灯っているだけで。裸足のまま、ただずっと道場の周りを歩いていた。ぼんやりと、総司はそう話す。
「甲良屋敷か。懐かしいな。そういえば、周りに蝋燭問屋が沢山あったな」
斎藤は、総司の額の手拭いを交換しながら話す。
「さっきまで刀を握ってたのに」
総司は自分の右掌を眺めながら呟く。斎藤は、まだ総司が夢の話をしているのだと思い黙って聞いていた。
暫くすると、「はじめくん、高台寺の奴等のこと詳しく教えてよ」
総司は、はっきりとした口調で話しかけてきた。いつもの総司だ。息苦しさも治った様子で。寝返りを打って、斎藤に顔を向けている。斎藤は、御陵衛士の普段の様子、活動、最近加わった隊員について話した。手練れと感じる者は皆無で、剣を交えるのに恐れる相手ではない。ただ、思想を語ると隊員の結束が強い。それは長州藩士に通じるものがあるという。あの篠原や三木でさえ、刀を抱いて布団に入って寝ていた。奴等が一番恐れているのは、新選組だ。いつ、寝首をかかれるやも。そんな事を皆が常に口にしていた。
「可笑しいね。はじめくんがそう言うなら。僕等は十分斬れるね」
「ああ、新選組は新八や左之、各組の手練れを集めて精鋭部隊をつくっている。俺は局長の別宅で、局長と副長の護衛に付く。左之達は油小路だ。もし、何かあればいつでも新八達に加勢出来る」
「じゃあ、僕は屯所を守るよ。いつ高台寺の奴等が襲って来てもいいように」
「ああ」
斎藤は、そう答えると。総司は笑顔になった。満足したように仰向けになると、瞼を閉じて眠ってしまった。
千鶴が間も無く目覚めた。総司の様子を伝えると、静かに眠れる時にこうして少しずつ睡眠を取れている。熱が下がるまで、安静に。そう言って、斎藤に、お茶を用意すると言って立ち上がった。斎藤は、お茶は必要ない。ただ、もう暫く、千鶴に一緒に部屋に居て欲しいと言った。総司もだが、千鶴も全く休めていない。看病に根を詰めて、この前の様に千鶴が寝込むことになるやも知れぬ。だが心配する斎藤をよそに、千鶴は、部屋でも自分の使った布団を片付けたり、ずっと動き回っている。
斎藤は、千鶴に何か欲しいものはないかと尋ねた。千鶴は笑って、ありませんと答える。そして、斎藤さんはいつも、私に同じことを訊いてくるが、何故だろう。まるで独り言の様に言って、独りで笑っている。そんなに可笑しな事だろうか。斎藤は、ぼーっと千鶴を眺めながら考えた。それから千鶴は、夕餉の支度をしに台所へ向かって行った。
その夜のお膳は、斎藤の好きな豆腐を使った料理が並べられた。焼き目刺し、紅生姜、青菜の白和え、揚げ出し豆腐、零余子入りご飯。零余子は葵が八瀬の山で採れたものを沢山持って来てくれた。山芋の零余子でほっくりして美味しいと話す。斎藤は飯を頬張った。美味い。他の皿も全て、何を食べても美味い。
「沖田さんのお粥にも入れて炊いたんです。零余子。目覚めて食べて貰えますように」
千鶴は、総司に手を合わせて願っている。
「そうだな。さっき目覚めた時は、意識がハッキリしていた。山芋は滋養に良い。きっと総司も喜ぶだろう」
千鶴は、笑顔になった。斎藤が戻って来て、沖田さんがどんなに嬉しかったのか良く解る。斎藤さんが居ると、きっと元気になられます。そう言って、千鶴は嬉しそうに斎藤の膳を給仕した。
その夜、斎藤は、刀の手入れを念入りに行った。総司の打刀も手入れした。総司は、夜遅くに一旦目覚めたが、また意識を無くすように眠り続けた。千鶴は、朝方までつきっきりだった様子で、総司の枕元に眠っていた。斎藤は、また自分の布団に千鶴を寝かせて土方の部屋に向かった。
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帰還四日目
十一月十八日深夜 伊東暗殺
その日は、朝から斎藤は土方の部屋で、今後の自分の身の振り方を話し合っていた。土方が、つい二日前に河原町の近江屋で、坂本龍馬が斬られたと言った。土佐藩士で、大政奉還に関わった志士。薩摩と関わりがある。坂本を斬ったのが新選組だという噂もあるらしい。坂本の残党が紀州藩の三浦という藩士が坂本を恨んでやったのではないかと、紀州藩邸に三浦を捜しに来たらしい。
三浦は、屯所の近くの天満屋に匿われている。紀州藩から新選組に直接三浦を護衛する様、申し立てが来た。お前に天満屋に行ってもらおうと思っている。そう話す土方は、溜息をついた。
「屯所内では、護衛衛士に居たお前が戻って来たのをよく思わねえ連中がいる。今日伊東を始末したら、お前が高台寺を見限ったと思う連中も増える。暫くほとぼりが冷めるまで、屯所を離れている方がいい。天満屋へは、三番組隊士を連れて行け。移動は明日以降だ。昼には、三番組を集めて話をする」
そう土方に言われて一旦総司の部屋に戻った。井上が斎藤の昼餉を用意したと言って膳を持って来た。千鶴にも食事をと。心配そうに総司の様子を眺めた。斎藤に、今夜は大仕事だが、「斎藤くんが勇さんに付いててくれれば安心だ」、そう言って部屋を出ていった。
その後、土方は大広間に三番組隊士を集めて、天満屋での護衛任務が言い渡した。護衛要員は全員で十五名。全て、手練れの隊士達で斎藤は心強かった。移動は、翌朝、そう決まった。
その後、斎藤は近藤の別宅へ日が落ちてから向かった。屯所を出る前、総司の意識は戻っていたが、まだぼんやりとして居た。微熱が下がらず、衰弱が激しい。千鶴が心配そうにそばに付いている姿を見ながら、そっと部屋を後にした。
暗殺は成功した。本光寺から、伊東の遺体を七条通りまで引き摺って待機している。そう報告が近藤の別宅にあった。その直後に、薩摩藩の鬼が油小路に現れ、高台寺派に加勢して来たと報告があった。斎藤は、鬼の介入に、思わず刀をとって、油小路に向かおうとしたが、土方は、屯所の護りが手薄だ、そう言って、斎藤に屯所に向かわせた。案の定、屯所の門の外で羅刹が暴れている姿が見えた。走ってくる小さな影が見えた、雪村か。斎藤は、そう思った瞬間抜刀した。
屯所へ薩摩藩の風間が独りで現れて居た。山南が出撃させた羅刹隊が、次々に風間に斬られ絶命していた。斎藤は、風間の前に立ったが、風間はそれ以上は闘う様子は見せず。薩摩藩の為に、屯所を一時的に制圧しただけだと言って笑う。
風間は、この時初めて羅刹と対峙した。それは、人間以下の悍ましい鬼の紛い者だった。そして、これを生み出した雪村綱道を呪った。それを利用する人間にも憎悪が湧いた。これ以上、この者達の側に東国の姫を留め置く必要はない。そう決心した風間は、真剣に千鶴を西国に赴くよう説得した。
千鶴は屹然と断った。斎藤が刀を構える前で、風間は刀を下ろした。風間は千鶴の拒絶を意も介さない様子で微笑み、最後に千鶴を一瞥すると闇に消えていった。
斎藤は、屯所の被害を確認した。羅刹隊は半数が息絶えて居た。血に狂い暴走して屯所の母屋に侵入した者は、総司が全員斬り殺していた。血の海となった総司の部屋で、横たわる総司が見えた。山崎は、総司に息がある事を確かめると、直ぐに松本良順を呼びに二条城へ島田を走らせた。山南は、夥しい数の羅刹の遺体を速やかに運びださせた。客間に移された総司は昏睡状態だった。斎藤は、総司が抜いた刀を見つけると、血を拭い鞘に収めた。屯所を守ったのだな。斎藤は総司の決死の覚悟を思った。
朝方に屯所に戻った土方に、油小路に誘い込んだ護衛衛士の半数が鬼の介入で逃走したと知らされた。新選組にも怪我人が出ている。平助は新選組に戻ったが、鬼に負わされた傷が深く瀕死状態で屯所に運ばれたと言う。
「平助は変若水を飲んだ」
そう言って、土方は暗い顔を見せた。容態がどうなるのか判らないが、山南さんが付いている。総司の状態も予断を許さない。土方は溜息をついた。そして、斎藤に予定通り天満屋に行く様に命じた。
「連絡は監察方を通す。屯所は心配ない。天満屋では偽名を名乗れ、いいな」
斎藤は、「承知」と応えた。
「高台寺派はおそらく薩摩藩に匿われているだろう、伊東が消えた今、残党が報復して来る可能性がある。十分に用心しろ。必要な物資は後で運ばせる」
立ち上がった斎藤に土方が告げた。斎藤は、総司の元に戻り容態を見守った。夜が明けて、斎藤は、広間に集まった三番組隊士達と屯所を後にして天満屋に向かった。
千鶴が斎藤が任務で屯所を出た事を知ったのは翌日の午後だった。総司はようやく意識が戻ったが、衰弱が激しかった、屯所は無事で、近藤も無事だと知らせると微笑んで目を瞑って眠りについた。次に目覚めたのは、翌日で、「はじめくんは」と千鶴に尋ねた。千鶴は、天満屋に任務で行っていると話すと、総司は頷いた。
みんな、無事ならいい。
そう言って静かに目を閉じると、また意識を無くすように眠った。
つづく