小説 - 斎千 - 濁りなき心に

寺田屋

濁りなき心に 3

元治元年四月

 監察方を伏見に潜伏させて数ヶ月、寺田屋に雪村綱道らしき剃髪の男が出入りしている情報が土方の元に届いた。やはり綱道さんは生きている。その目算が強まった。だが薩摩藩が絡んでるとなると、見廻りをすれば十中八九また姿をくらまされてしまう。土方は暫く考えた後、文を一筆書くと斎藤を部屋に呼んだ。

「副長、斎藤です」

 障子の向こうから、斎藤の声がした。

「おう、入れ」

「御用でしょうか?」

「ああ。今日は非番だったな。折角の休みに悪いが、ちょいと使いを頼みたい」

「はい」

「これから伏見に行って、これを大黒寺の山崎に渡して欲しい」

「承知しました」

 斎藤は畳に置かれた文を手に取ると、そのまま懐にしまった。

「直ぐに行って来てくれ。それから、千鶴も一緒に連れて行ってやれ」

「雪村をですか?」

「ああ、寺田屋に綱道さんらしい男の出入りがあったらしくてな。見張りに千鶴を行かせるのが一番手取り早い。寺田屋前に団子屋があるだろ。あそこで客の振りをして寺田屋の出入りを見張らせる」

「寺田屋といえば、最近は薩摩藩や土佐藩の浪士が出入りしていると」

「ああ、お前は面が割れているから、座り込む訳には行かねえが。千鶴なら怪しまれずに張れるだろ」

 斎藤は一瞬逡巡した様子だったが、顔を上げると。

「はい、では雪村を呼んで参ります」

 と立ち上がりかけた。

「いや、それには及ばねえ。お前から誘って伏見へ連れ出してやればいい。綱道さんの事は道すがら段取りすりゃあいいだろ。俺はこれから急ぎの用で黒谷に行かなきゃならねえ。ほら、これを持って行け。千鶴に団子以外にも何か欲しいものを買ってやればいい」

 そう言って、土方は紙に包んだ金子を斎藤に渡した。

「御意」

 斎藤は応えると一礼をして部屋を出て行った。

*****

「これから、伏見へですか?」

 出掛けることを伝えると、千鶴は驚いた様子で洗濯物を干す手を止めた。

「ああ、俺は用があって行くんだが。あんたも、その……」

 口籠る斎藤を千鶴が不思議そうに見つめていた。

「千鶴ちゃん、はじめくんが千鶴ちゃんと逢い引きしたいんだって」

 縁側から沖田が顔をだし、からかう調子でそう言った。斎藤の頰が赤くなった。

「総司」

 叫ぶ斎藤の横をすり抜けて千鶴の持つ敷布を取り上げると、沖田は千鶴を見下ろしながら言った。

「洗濯物は僕と源さんでやっておくから、行っておいでよ。じゃないと、はじめくんが拗ねちゃう」

 沖田は咄嗟に掴みかかる斎藤をかわし、高笑いしながらくれ縁を駆け上って廊下を走って逃げた。それを追う斎藤の背中に向かって千鶴が声を掛けた。

「今直ぐ支度をします。斎藤さん、玄関で待っていて下さい」

 千鶴は足早に自分の部屋に戻って行った。部屋に入ると急ぎ襷をとって、後れ毛を櫛で梳かし上げて髪を直した。行李から桜の柄の入った手拭いをだして袂にしまった。

 玄関で待つ斎藤は刀袋を抱えていた。千鶴が来るのを確かめると、先に歩きながら伏見の立ち寄り先の話を始めた。

「父さまが、寺田屋に居るのですか?」

 千鶴は斎藤に駆け寄ってきた。斎藤の着物の袖を思わず掴み、顔を覗き込むように訊く千鶴の真剣な表情を見ると、斎藤は足を止めて千鶴の正面に立った。斎藤は袖にかかる千鶴の手を左手で強く握ると。

「まだ綱道さんだとは判っていない。剃髪の蘭方医らしい出で立ちの男だそうだ。娘のあんたなら判別がつくだろう」

 斎藤は千鶴の眼をじっと見つめて答えた。寺田屋の前の団子屋で見張ること。その間に斎藤は大黒寺の用を済ませ再び千鶴と合流すると段取りを伝えた。千鶴は独りで見張りをするのに少し不安を感じたようだが、父親が見つかるかもしれないという期待のほうが勝った。

「斎藤さんは大黒寺にその刀をお持ちになるんですか?」

 隣に並んで歩きながら、千鶴は斎藤の刀袋を見た。

「いや、これは研ぎに出す」

「伏見に研ぎ屋があるんですね」

「ああ、古い付き合いだ」

「平助くんが屯所に来る刀匠も研ぎ屋さんも会津藩御用達だと言っていました」

「屯所に来るのはそうだ。俺は研ぎは別に出している」

「そうなんですね」

 千鶴は笑顔で刀袋を見つめると、自分の小太刀に手を掛けながら言った。

「私もいつかこれを研ぎに出してみたいです」

「この前手入れした時は、一点の刃こぼれも曇もなく、何も問題なかったが」

 斎藤は小太刀にかける千鶴の手元を見ながら微笑した。

「今度、替えの脇差しを貸そう。差料さえあればそれを研ぎに出しても問題なかろう」

「はい」

 溢れるような笑顔で応えると、千鶴は自分の足取りが軽くなった気がした。

 伏見の団子屋で千鶴が寺田屋の見張りを続ける間、斎藤は大黒寺の境内で物乞を装う監察方山崎烝に土方の文を渡した。それから伏見御堂の裏手にある研ぎ屋に向かった。一見すると唯の長屋だが、開け放たれた玄関から中に入ると上り口から向こうは研ぎの工房になっている。

「御免」

 斎藤が声をかけると、薄暗い土間から「へえ」と返事があった。白い作務衣に白足袋に下駄、藍の前掛をした初老の男が斎藤の顔をみると笑顔になった。

「斎藤様でしたか。よういらっしゃいました。どうぞ」

 男は上り口の奥から敷物のような布を持って床に拡げた。斎藤は上り口で手にしていた刀袋を男に渡した。

「急ぎで頼みたい」

 男は袋から刀を取り出すと、手際よく鞘から刀を抜き刀身を確かめ始めた。

「物打ちに微小な刃毀れ二箇所、鎬の中腰に傷二箇所」

「早速に」

 というと、刀身をゆっくり鞘に収め研ぎ場の刀置きに載せた。

「お社へ行かれますか?」

 男に尋ねられた斎藤は無言で頷くと、男について土間を通り家の裏に出た。

 苔に覆われた敷石が続く向こうに小さな祠があり、両側に楠の大木がそれを守るように立っている。斎藤はここに来ると必ずこの祠に立ち寄る。信心深い訳ではないが、この空間は気持ちが落ち着くからだ。この研師は山道で盗賊に襲われたところを偶然斎藤が助けた。斎藤が初めて上洛した時の事だ。大和の国のもので、宮司をしながら刀剣の研磨を生業にしている。研ぎ屋とはいえ、表看板も出さず、人を斬る刀を研ぐことはない。神社に奉納される刀剣だけを扱う。名は光逸真五郎と名乗っている。その腕は確かだ。真五郎は斎藤と出会った時に御礼にと刀の研ぎを申し出て以来、斎藤の愛刀を研ぎ続けている。

 工房の左手に離れのような小屋があり渡り廊下のように長屋と繫がっている。そこに見憶えのある男が佇んでいた。殺気は感じないが、目に光をもったその男は浪人風の出で立ちで、顔に怪我をして着物も斬られた痕があった。斬り合いをした直後に逃げて身を隠しているのか。斎藤は鯉口に手を掛けながら、ゆっくりと真五郎を庇うように廊下にむかった。男は近づく斎藤を暫く見つめた後、一礼をしてゆっくりと離れに入って行った。

「かの者は、客人か?」

「へえ、時々お見えになられます。あの通り怪我をされてはるので治るまでの間離れに」

 以前にも此処で見かけたのか、斎藤は男が消えた離れを見つめながら、男の特徴を思い返していた。

「時に主人、ここのところ伏見に西方の浪人の出入りが増えているようだが、此処へも研ぎの用で顔を出す者がいるのか?」

「へえ、たしかに。土佐や薩摩の藩士を名乗る御仁が研ぎの御用向きでお見えになりますが、皆お断りしていまして。此処は街道にも近いので旅籠はどこもいっぱいと聞いてます」

 二人は工房に戻ると、真五郎は早速研ぎの準備に取り掛かる支度を始めた。神棚の前に斎藤の愛刀鬼神丸国重を置くと、禊ぎをしてから柏手を打ち祝詞を唱える。斎藤は静かにその様子を眺め正座を解くと、「では頼む」と一言残し静かに長屋を後にした。

****

 寺田屋の前の団子屋に戻ると、千鶴は直ぐに斎藤の姿に気付きお代を済ませて店から出て来た。一刻以上も見張りをしていたが、綱道らしい男の姿はみえなかったと肩を落としている。

「監察方も目を光らせている。また新たな情報が入るやも知れぬ。此処へはいつでも見張りに来ることが出来る」

「そうですね」

 千鶴に少し笑顔が戻った。

「何か必要なものはないか? この界隈は店も多い。欲しいものがあれば探すといい」

 斎藤がそう言うと、少し思案をした表情をした千鶴の顔が急に明るく笑った。

「あ、そうだ。繕い用の糸が少ないので欲しいです。藍や浅葱のものがあれば羽織り用に」

 斎藤は微笑しながら応えた。

「あんたの欲しいものはないのか? 小物でも見てみればどうだ」

 千鶴は、はいと笑顔で応えると、キョロキョロと辺りを見回してから、角の小間物屋を見つけると嬉しそうに入って行った。斎藤が店の中に入ると、千鶴は台の上の千代紙を手に取り「まあ、綺麗。これも綺麗」とうっとりと眺めている。千代紙の隣には色取り取りの袱紗が並べてあった。その中の紅い袱紗を見ると縁に桜の花弁が描いてあった。

「まあ、可愛い袱紗」

 千鶴は思わず溜息が出た。斎藤が近づいて、「それが気に入ったのなら、貰おう」と言うと店の売り子を呼んで同じ模様の入った懐紙と千代紙を一緒に買った。

「有難うございます。こんなに沢山」

 と言って包みを大事そうに抱えると、千鶴はおもむろに袂から手拭いを取り出して見せた。

 桜模様の手拭い。

 以前斎藤が市中で見つけ千鶴に買って帰った。屯所に籠りきりの千鶴に幹部の皆がやれ、団子だの蜜柑だのと差し入れをしているのを、無意識に羨ましく思っていたのか。自分でも解らぬが、手拭いを目にした時に小さな桜の花弁を見て、千鶴の笑顔を思い浮かべた。

「この模様と同じ」

 千鶴は微笑みながら手拭いを眺めると、「大切にします」と丁寧に畳んでしまった。斎藤は歩を進めながら千鶴の横顔を気付かれないように眺めた。

 長い睫毛に縁取られた大きな瞳は、真っ直ぐ前を向いて。微笑を湛えた頰、貝殻を想わせる小さな耳朶、風に揺れる黒髪。不意に押し寄せるこの感覚は一体何であろうか……。斎藤は不思議に思いながらもこれ以上その想いを突き止めるのは止した。

 ——自分は明日をも知れぬ身。俺のような者が。

 そんな事を考えていると、いつの間にか屯所に着いた。

 土方はまだ戻って居らず、千鶴は洗濯ものを取り入れると言って中庭に出て行った。斎藤が自分の部屋に入ろうとすると誰かの声がした。

「それで、どうだったの?」

 廊下の柱にもたれ掛かり、まるで斎藤を待っていたかのように訊ねる総司が居た。

「収穫なしだ。綱道さんらしい男は現れなかった」

「ふーん、それでどうだったの?」

「伏見に西方からの出入りが増えている。薩摩、長州、土佐ものが多い」

「ふーん、それで?」

 いつの間にか斎藤の部屋で寝そべりながら、総司は揶揄するような皮肉っぽい表情で斎藤を見つめている。

「一体、あんたは何を聞きたいんだ」

 斎藤は腰の刀を抜いて刀置きに掛けると、静かに正座して訊ねた。

「はじめくんってさ、普段聡い割に鈍いよね」

「総司、言いたい事があればハッキリと言え」

 斎藤は瞑目しながら静かに凄む。

「だから千鶴ちゃんの事だよ。僕が聞きたいのは」

 総司は寝返りを打って斎藤に向き肘枕をすると、呆れたような表情で笑いかける。

「雪村は残念がっている」

「ふーん、そんな風に見えなかったけどね。随分楽しかったみたいじゃない。それで、どうなったの逢引きは?」

「今日は副長の命で偵察に出ただけだ。逢い引きなどではない。見張りも雪村は単独行動で、俺は山崎や研ぎ屋に会っていてずっと一緒ではなかった」

「そうか、ずっと一緒でなくて、はじめくんは寂しかったんだ」

「あんたは何を言っているんだ」

 この時には斎藤の頰が熱くなり、次の言葉は何も出なくなった。

「はじめくん、耳まで真っ赤だよ。井戸で顔洗って来たら。千鶴ちゃんが物干しにいるだろうからさ、また伏見にいこうって誘うといいよ」

「伏見には十日後にまた行く。研ぎに出したからな。総司、手合わせするぞ」

 これ以上は耐えられぬと斎藤は立ち上がり、引きずる様に沖田を連れて道場に向かった。

「なに、また研ぎに出したの? その伏見の研ぎ屋さん、僕のも研いでくれないかな。はじめくん、狡いよ。自分のだけ」

 道場で久しぶりに沖田と斎藤は手合わせをした。伏見からの帰り道に感じた千鶴への想いはやはりこれ以上は突きとめないでおこう。沖田のからかいが的を得ていただけに、余計に斎藤の決心を頑なにした。沖田は沖田で、斎藤の何処か心有らずな剣筋を退屈にかわしながらも、伏見で二人に何かがあったのだろうと、聡く感じ取っていた。

 だから、認めちゃえばいいのに。真面目だね、はじめくんは。

****

 土方が屯所に戻ったのは皆が夕餉を終えてからだった。千鶴と斎藤は土方の部屋で報告を済まし、先に千鶴は下がった。土方に感謝しているとお礼をいう千鶴に土方が応えた。

「俺は何もしてねえよ。綱道さんの事は当てが外れたが、また現れるかもしれない。伏見へはまた行くことになるだろう。その時は」、一瞬間を空けて土方は斎藤の方に顔を向けると。

「斎藤が連れていくよな、なぁ、斎藤」

 微笑む土方に、総司と同じ様な冷やかしの空気を感じながらも、斎藤は黙ったままでいた。千鶴は嬉しそうな笑顔で下がっていった。また父親探しが出来る事が嬉しいのか、伏見に行くのが嬉しいのか。出かけるのが嬉しいのか。斎藤は心の中でまた突き止めても詮無いことを考えてる己を諌めた。十日後に預けた刀を取りに伏見に行く時、斎藤は独りで行こうと決心した。

 それから十日経った昼近く、斎藤は再び伏見へ独りで出向き、大黒寺で山崎烝と落ち合った。山崎からは寺田屋周辺の情報を得た。雪村綱道の出入りは未だ不明だが、寺田屋が薩摩や土佐藩士専用の旅籠となり、尊皇攘夷を称える浪士の会合場所となっているらしい。大黒寺近くの長州屋敷が静かな一方、四条付近に長州藩士が潜伏している情報もあった。土方の指示で山崎は四条に偵察に行く事になった。

 大黒寺を後に斎藤は研師のところに向かった。長屋の玄関をくぐると真五郎が、ちょうど斎藤の刀を仕上げていた。真五郎は斎藤が来たことに気付かずに一心に刀身を拭っている。

 最後の拭いか。

 あれほどの研磨を十日で仕上げる真五郎の腕と根の詰めように斎藤は毎回驚く。斎藤は邪魔をせぬよう静かに裏庭に出た。社は外の雑踏とは別世界の静寂。祠の前に人の背中がみえた。斎藤は自然と気配を消して影から様子を見る。祠の前の石畳に刀を差した男が真っ直ぐ瞑目して立っていた。ゆっくり目を開くと腰の刀の下げ緒を解き、鞘に引っ掻ける。静かな動きの中に精神統一する気迫がみなぎる。一拍の間から構え、一気に抜刀すると逆袈裟に宙を斬った。そのまま後ろを振り返り鋭く突き、摺り足で滲み寄ると高みから振り下ろし流れるように鞘に剣を納めた。

 見事な残心。

 隙のない太刀筋に斎藤は舌を巻いた。

 男は以前見かけた工房の客人。十日前は顔に傷を負い、着物は破れ暴漢と激しく打ち合った直後のような怪我人であったが、今は顔の傷もすっかり癒え、着物もこざっぱりとした藍の長着に兵児帯、そして白い足袋に草履を履いて立って居た。髪は後ろに束ねている。細身だが精悍な体躯は、斎藤のそれに似ており、斎藤より上背のある分、対峙すると不利かも知れぬ。だが、男は斎藤が是非手合わせをしたいと思う太刀筋だった。斎藤の気配に気付くと、男は一歩下がり一礼した。

「すまぬ、稽古の邪魔をするつもりはなかった。祠に詣りに来ただけだ」

 斎藤が前に進むと、男は黙って石畳から下りて道を開けそっと片膝をついて一礼した。祠に手を合わせ終わると斎藤は男の前に立った。

「そこもと、顔を上げられよ。其れがしはここに預けた刀を取りに来た者。先刻はお見事な居合いを拝見した。無外流とお見受けしたが」

「我が主が手本でございます」

 と、男は顔を挙げぬまま答える。男の声は低くよく響く。礼を心得たその振る舞いに斎藤は好感を持った。

「失礼つかまつった。某れがし、会津藩お預り新撰組の斎藤一と申す。そこもとの名をお聞かせ願う」

 斎藤は一歩下がって畏まった。

「某れがしは池田長兵衛と申す」

 そう言ったきり、男は斎藤の足元辺りを見つめている。

「何処の家人で有らせられるか、お聞かせ願おう」

(脱藩浪人か)

 斎藤は警戒しながら訊ねる。

「某れがしは主と伴に会津藩お預りの身、ここへは事情があり数日逗留して居ります」

 長兵衛は顔をあげて斎藤を見つめ返した。眼光は鋭いが、表情は先刻の緊張とは程遠い。恐らく伏見御堂の駐屯所で剣術指南している藩士かも知れぬ。

「そうであられたか。では機会があれば手合わせも叶うやも知れぬな」

 初めて言葉を交わす相手であるが、旧知の間柄の気がするのは何故か。胸の内では今すぐ一本交えたいと心が逸ったが、斎藤は真五郎に預けた国重を思い出し、長兵衛に挨拶を済ませると社をあとに工房へ戻った。真五郎は斎藤に気づき、一旦手を止めて立ち上がった。あと半刻程で仕上がるという。真五郎は土間の反対側の奥から、盆に載った茶碗を斎藤の前に置いて鉄瓶の茶を注いだ。工房では湯を沸かせない故、冷えた白湯のようなものしか出せず申し訳ないと苦笑いする。斎藤は構わぬ様子でお茶を飲んだ。こうして真五郎の刀を扱う手順を眺めるのが、斎藤の楽しみでもあった。

 真五郎は一心に横手を切っている。宝剣の類いを研磨してきたからか、真五郎の仕上げは刀身が黒い鏡のようになる。地沸は漆黒の闇に霞と千切れた真綿が重なりあうような。斎藤が愛刀を月明かりの下で抜くと蒼白く光ると総司は羨ましがるが、斎藤は実兄から譲り受けたこの鬼神丸国重を大層気に入っていた。

 人を斬る。単純にして明解な目的をそのまま表した刀というものが斎藤は好きだった。新選組に身を置く自分も、京を護るという目的、土方や近藤のため会津藩に微衷を尽くし侍う、その為に己が刀身となって働ければと願って生きてきた。そこには一寸の迷いもない。

——真五郎は斎藤が命の恩人ゆえ、人斬りの刀でも研いでいるのか。

 あの池田長兵衛の刀も研いでいるのやも知れぬ。此処で何度も研磨にかけているが、刀身が減らないのが不思議だ。他の研ぎとは違い、真五郎に預けると国重は冴える。斎藤は独りつらつらと真五郎の研ぎについて考え耽った。

「斎藤様、大変お待たせ致しました」

 真五郎が神棚から国重を卸す。研の終わりに真五郎は工房の神棚に一旦刀も奉納してから祝詞で清める。宮司故であるが、斎藤はこの儀式も気に入っていた。斎藤自身もが浄められるように無心な状態になる。

 真五郎は、真っ白な絹の布地で国重を包み斎藤に差し出した。薄暗い工房の中に絹の光沢が輝きながら浮かぶ。その中に佇む愛刀。斎藤が刀を手に取り柄を握ると、刀身が振動するように共鳴した。斎藤はこの瞬間が好きだ。抜刀する時にも感じる鬼神丸独特の一体感。

 いつか千鶴も自分の小太刀の柄を握ると安心すると言っていた。小太刀に守られていると。護り刀か。斎藤は、屯所の中庭で千鶴と小太刀の稽古をした時を思い出した。

 あの小太刀も研ぎに出さねば。

 国重を握ったままぼんやりする斎藤を真五郎は訝しげに眺めていた。

「どうですやろ?」

 斎藤は、研師の声で我に帰ると、鞘から刀身を抜いて確かめた。地鉄に外からの僅かな光が当たり、板目の鍛えに沸が微塵に詰んでいる。この深みのある闇のような肌に互の目丁子が交じり刃紋の働きは冴え冴えとしている。以前より切っ先の返しが深くなっているのは気のせいか。

「返しが深いな」

「へえ、刃引で元の地が現れまして。今回は石上の石を使いました」

「いそのかみ、それは土地の名か?」

「へえ、私の国のお社でございます。剣の神さんでして。宮司の私達も年に一度しか御本地の石には近寄れません」

「その石を使って磨くのか?」

「御本地には触れません。その周りの石を削って刃艶にします。今回は打ち粉も石上さんで作りました」

 真五郎は嬉しそうに答える。

「この刀を持って二年になるが、研ぎの度に違って見える」

 斎藤はもう一度じっくりと刀身を眺めると、ゆっくりと鞘に納めた。立ち上がって腰に差す。足元に置いていた替えの打ち刀を刀袋に仕舞うと、上がり口から下りて草履を履いた。懐から金子の入った袋を取り出し主人に渡す。

「有難うございます。斎藤さま、此方を」

 真五郎は斎藤に麻袋に入った小さな木箱を渡した。

「石上さんの打ち粉です。お手入れにどうぞお使い下さい」

「ありがたく頂く。礼を言う」

「へえ、またのお越しを」

 斎藤は玄関を出るときに主人に向かって訊ねた。

「さっき、社の境内でお客人に会った。会津藩の者のようだ」

「へえ、客人でございますか」

「ああ、池田殿だ」

 真五郎は合点がいった風に。

「池田様にお会いになられましたか。それはそれは」

 そう言って斎藤の腰の国重を眺める。

「またお見えになられるでしょう」

 真五郎は笑顔でそう言うと、玄関の外に出て斎藤を見送った。

 研師の長屋から寺田屋を回って四条へ向かった。

 途中長州藩邸付近も偵察に立ち寄った。春も過ぎ日も長くなったにもかかわらず、市中は昼間でも人通りが少ない。不逞浪士が行き交い、商いが出ていても客が居らず閑散としている通りを歩きながら、斎藤は不穏な空気を感じていた。監察方の島田魁が潜伏している四条でも浪士の出入りが激しい。建屋の中から外の様子を伺っている輩もいる。斎藤は警戒を決して解かぬよう、足早に四条小橋に向かった。

 島田が播磨屋の前でしゃがみこみ草履の紐を結んでいる。同じ軒下に佇んで、亥の刻に山崎が合流することを伝えた。そのまま壬生に戻った斎藤は、屯所の庭で独り空を眺める雪村千鶴を見つけた。手には物干しから取り入れたばかりの隊服を持っている。斎藤に気づくと、「お帰りなさいませ」と笑顔で駆け寄って来る。

「ただいま戻った」

 斎藤は応えると、懐から紙の包みを取り出した。中には和紙で出来た小さな茶巾が入っていた。桃色地に手鞠の模様で赤い組み紐が結んである。千鶴の表情が明るくなった。茶巾を掌に乗せて横から覗きこんで喜んでいる。千鶴は茶巾を耳の傍で振ってみた。中からコロコロと小さな音がする

「金平糖だ」

 斎藤は優しく微笑むと、刀袋を持ったまま草履を脱いでくれ縁を上がって行った。

「有り難うございます」

 千鶴は頭を下げて丁寧に御礼を言った。

「今、お茶をお持ちします」

「副長の部屋にいる」

 振り向き様そう言って、斎藤は廊下の角を曲がった。刀を部屋に置いてから、土方の部屋に向かうと、廊下で総司が潜むようにしゃがんでいる。斎藤は気配を消して近づくと、総司は土方の部屋の障子に小刀で小さな穴を開けていた。片目をつむり、穿った穴に長い竹の棒を差し込もうとした。総司は斎藤に声を立てぬよう目配せする。斎藤は呆れた表情でそのまま近づくと、「副長」と部屋の中に声をかけた。

「斎藤か、入れ」

 中から土方の声がした。総司は息を殺したまま障子の陰に隠れた。斎藤が障子を開けて部屋にはいると、土方は廊下に向かって怒鳴った。

「おい、総司。いい加減にしやがれ」

「なーんだ。あともう一寸だったのに」

 総司は竹の棒をくるくる回しながら、土方の部屋に入って来ると胡座をかいた。

「何がもうちょっとだ。そんなもの振り回してねえで、部屋で寝てろ」

 土方は総司を睨み付けた。「はいはい」と返事しながら、総司は立ち上がり際に竹棒を伸ばして文机の上の帳面を引っ掛けると、万事得たりと懐にしまって走りだした。

「おい、それは」と土方も飛び上がり、廊下を追いかけて行く。斎藤はやれやれという顔で開け放たれた障子の向こうを見ていた、その時。

「失礼します。お茶をお持ちしました」

 と、盆を抱えた千鶴が部屋に入って来た。畳に盆を置くと、お茶を丁寧に斎藤の前に差し出す。盆の上には桜の懐紙に載せた金平糖が見えた。

「土方さんのお茶は此方に置きますね」

と言って文机にそっとお茶を置いた。斎藤は茶を一服した。美味い。半日歩き廻った後だけに格別に感じた。千鶴は座って暫く斎藤を眺めた後、部屋を下がろうとした。

「雪村、今日は寺田屋に立ち寄った。あれから綱道さんらしき者は現れていないが、宿に薩摩藩士の出入りがあるのは確かだ」

 斎藤は静かに話す。千鶴の瞳は翳ったように見えた。

「有難うございます」

 斎藤に頭を下げて俯いたまま、膝の上の小さな手を握りしめている。

「監察方の山崎達も薩摩と綱道さんの繋がりを探っている。動きがあるのは確かだそうだ」

 暫くの沈黙のあと。

「父様は、無事なのでしょうか」

 と、小さな声で問いかけた雪村千鶴の思い詰めた表情を見ると、斎藤は返す言葉に詰まった。そこに土方が戻ってきた。

 まったく、あいつは、と呟きながら、取り返した帳面を文机に置いた。帳面の表紙に土方の筆で「豊玉発句集」と書いてあるのが見えた。

「茶の用意か。ありがとよ」

 千鶴に礼をいうと、土方は一服して一息ついた。それから斎藤に向かって胡座をかきなおした。千鶴は黙っている斎藤から視線を土方に移すと、一礼してから盆を下げて静かに部屋を出ていった。障子越しに消える千鶴の影を目で追った斎藤は、土方に向き直ると報告を始めた。

「副長、山崎に島田と合流するよう申し伝えました」

「ご苦労。島田だけでは、四条辺りはもう手が回らねえ。旅籠に山崎を客を装わせて潜伏させる。これまで以上に巡察も充分やってくれ」

「承知。今日は寺田屋周辺も廻ってきましたが、雪村綱道の出入りは不明でした。長州、土佐、肥後など薩摩以外からも浪士が頻繁に上洛していると関所守から情報が。多くは下京の旅籠に逗留していると」

「夜の巡察は二番組と五番組だったな。夕餉の後に幹部に集まるよう伝えてくれ」

「それから明日の昼の巡察は総司の組と廻ってくれ。総司は変な咳をしやがる。今日は代わりに平助に一番組を持たせた。でもあいつは退屈すると碌でもねえことをしでかしやがる」

 土方はそう言うと、文机の金平糖を懐紙で包んだ。

「これは総司にやってくれ。あいつの好物だ。明日の昼に巡察に行かせる。それまでおとなしく横になってろと言っといてくれ」

「御意」

 と返事をして、斎藤は土方の部屋から下がると、そのまま総司の部屋に向かった。

「総司、開けるぞ」

 障子を開けると、総司は部屋の真ん中で竹棒を振り回しながら仰向けに寝そべっている。拡げた蒲団の上でいつもの不貞腐れ顔だ。斎藤が障子を後ろ手に閉めると、寝返りをうった総司が、いきなり竹棒で突いてくる。左に飛び退いた斎藤は足許にあった枕で二突き目をかわした。

「やめぬか」

 斎藤は、続けざまに打ってくる竹棒を払った。総司の目が爛々と輝き出す。口許は不敵な笑みで膝を開いて躙り寄り斎藤を追い込む。

 こういう事で興に乗ると、総司は厄介だ。

 斎藤は、一瞬の間で総司の脇腹をすり抜け、右の壁の刀置きに手を伸ばした。黒い影が斎藤の腕を掠めたと思ったら、右目のあと一寸というところで突きを止めた打刀の鞘の先が見えた。

「腕が長い分、僕の勝ち」

 逆手に打刀の鞘の真ん中を握って斎藤の右目を狙ったまま総司は満足そうに笑う。斎藤は、鞘の先から目線を総司の顔に移すと。

「俺は抜身だ」

と、無表情で答えた。総司の脇腹には小刀が突き付けられていた。斎藤の利き腕で握られた小さな刃は鈍い光を放っている。

「狡いよ、はじめくん。いつの間にそんなの獲ったの?」

「枕の側に放ってあった」

 総司は興醒めした表情で刀を壁に掛けると、咳をしながら蒲団に寝そべった。

「土方さんの言伝だ。明日の昼の巡察は一番組と三番組で四条に行く。それまで横になって休め。これは土方さんからだ」

 斎藤は、金平糖の包みを蒲団の上に置いた。総司は脇腹を下に肘枕でまた竹棒をとると、紙の包みを突ついている。

「なにこれ、土方さんの付け文?」

「あんたの好物だ」

 総司は包みを開けた。

「金平糖。土方さんが? 今晩雪でも降るんじゃない」

 総司は皮肉を言って笑った。

「今晩はよく休め。夕餉も部屋に運ばせよう」

 斎藤は立ちあがった。

「明日はあの子も来るの?」

 総司は俯せたまま金平糖を摘んで口に放り込んだ。

「ああ、三番組で護衛する」

 斎藤は静かに答えた。

「一刻も早く綱道さんを探さねばならん。前川邸のかの者達の抑えが効かなくなる前にな」

 総司は金平糖をひとつひとつ頬張っている。

「綱道さんが見つかったら、あの子出て行くんだよね?」

 ぼんやりと畳の先を見つめたまま呟く総司を、斎藤は振り返りながらじっと見つめた。そして、「ああ、」とだけ答えて斎藤は部屋を出て行った。

つづく

(2025.11 加筆修正)