濁りなき心に14
慶応元年閏五月
将軍家茂公の上洛に伴い、新選組が二条城の警備をした夜、風間千景、天霧九寿、不知火匡の鬼の三人が襲来した。新選組の幹部が対峙したが、鬼と名乗る三名は異常なまでの俊敏さで斎藤達の太刀をかわした。同時に奇妙な発言もしていた。
将軍家茂公を襲うつもりはない。我らの目的は雪村千鶴だ。
その者は貴様等人間には過ぎたる者。
警備に追随していた千鶴は酷く驚き怯えていた。幹部全員で、鬼と名乗る不審な男達を追い返したが、夜の暗闇に軽々と二条城の石垣を飛び越えて姿を消した三人は、薩摩藩の者と思われ。今後も警戒をするようにと土方が指示を出した。
そして、その翌日の夜中のこと。
「斎藤くん、こんな時間に。今夜は巡察は早く切り上げですか」
屯所の北集会所の離れにある山南の部屋を斎藤は訪ねた。
「いいえ、違います」
暫くの沈黙の後。
「山南さん、もし差支えなければ、俺と手合わせをお願いしたい」
山南は文机に向い書き物をしていたらしく、部屋の奥に行灯が灯っていた。
「ええ、よろしいでしょう。これから私も道場に行こうと思っていましたから」
斎藤は山南の後に続いた。山南の向かう道場は、通常斎藤達が使う稽古場とは違い別にある。境内の裏方にある古い御堂で、昼間も誰も近づかない。山南は、日没から明け方までこの御堂に手偏部屋の羅刹隊士を集めて、剣撃の稽古をしていた。
締め切られた空間は、埃臭く蝋燭の炎が奥に灯っているだけで薄暗い。道場に入ると、既に数名の隊士が手合わせをしていた。山南の姿に気がつくと、隊士たちは一旦手を止めた。
「この中は、貴方には暗いでしょう」
山南が静かに斎藤に語りかける。
「我々は夜目が効くので、灯りは必要無いのですが、御堂を使う限り蝋燭を灯す必要があって」
山南は奥まで進むと、木刀をとって斎藤に渡した。
「暗い中で稽古出来るなら、好都合です」
斎藤はそう言うと位置についた。山南も木刀を持って位置につくと静かに構えた。
斎藤が先に攻め込んだ。全力で斬りつけるように前に出る。山南は、斎藤の動きを躱しながら下がる。
(早い)
斎藤は、一瞬で消えるように身を躱す山南の動きに驚く。まさにこの素早さは奴等と同じ。二条城の警備中に現れた風間達。自ら鬼と名乗り、将軍でも会津藩でもなく雪村を襲い連れ去ろうとした。雪村は身に覚えが無いと言っているが、風間達は薩摩藩の者。おそらく綱道さん絡みであろう。あの様な手練れが束になって来たら……。
雪村を奪われてはならぬ。
土方は幹部を集めて、屯所の警備の強化と千鶴の護衛に引き続き三番組がつく様に命じたが、斎藤はそれだけでは不十分だと感じた。あの人離れした者達を制圧するには、己が腕を磨くしか無い。斎藤は居ても立っても居られなくなり、こうして山南に手合わせを頼む事になった。
山南は漲る力で斎藤の太刀を跳ね除ける。自信に満ちた気迫で次の一手を打って来る。斎藤は受身に徹した。にじり下がりながら、山南の一定の動きの癖が出て来るのを待った。羅刹の動きは、俊敏に見えるが良く動きを捉えると、単純な動きを繰り返す事が多い。
揺れ。斎藤はそう呼んでいる。
相手の動きの「揺れ」を突くと、隙が出る。その瞬間に一撃を打つ。
山南にも「揺れ」が見えた。そこだ。斎藤は打って出た。一瞬で山南は身を翻したが、斎藤は次の動きが見えたので先手を打った。山南の木刀は弾き飛ばされた。斎藤は山南の眼孔が赤く輝き、白髪になっているのに気が付いた。山南の羅刹姿に斎藤は息を呑んだ。
山南はいきなり素手で斎藤の木刀に掴みかかって来た。剛力で太刀ごと斎藤を跳ね返すように押すと、そのまま後ろににじり下がり、木刀を拾って、襲いかかって来た。斎藤は体勢を整える間も無く一太刀受けた。これが、羅刹の力か。斎藤は、初めて変若水の効力を実感した。山南は元々剣の腕があった。そこに羅刹の力が加わった。勿論、日々の鍛錬もあるだろう。だが、この俊敏な動きと怪力は今迄の山南とは違うものだった。斎藤は全力で戦った。二人の荒々しい勝負を他の隊士は手を止めて眺めていた。半時打ち合って、双方とも木刀を下ろした。斎藤は息が上がり、山南も両手を膝について肩で息をしていた。次第に銀に輝く山南の髪が黒く元に戻った。
「斎藤くん、今晩は此こまでで」
山南は漸く立ち上がると笑顔で一礼をした。斎藤も一礼をして下がった。
「山南さん、また明日もお願いしたい」
斎藤は道場を後にする時に頼んだ。
「喜んでお相手しましょう」
山南は微笑んでいる。黙礼して北集会所に向かう斎藤に向かって山南が呼びかけた。
「長州はそんなに強いのですか、斎藤くん」
斎藤は振り返りながら答えた。
「長州ではありません。薩摩藩士に二条城で襲われました」
「薩摩藩ですか?」
「はい、かの者達は池田屋にも禁門にも現れました。自らを鬼と名乗っています」
「その者達は、人離れした強さがあるのですか?」
「はい、力と動きの早さは羅刹に通じるものが」
「それで、今夜は手合わせに見えたのですね。解りました。明日の日没後。此方でお相手をしましょう」
「有難う御座います」
斎藤は深々と頭を下げた。山南は歩き去る斎藤を見つめながら、二条城に現れた鬼達を想像した。
——我々羅刹に通じる強さ。薩摩藩にも羅刹が存在する。おそらく変若水が出回っているのだろう。
山南は羅刹の副作用を抑える術を探す必要を感じた。
(今の隊士では不十分。もっと隊士を増やさねば)
山南は道場に戻って隊士の鍛錬を再開した。
******
時は一日前の夜に戻る。
風間達は二条城で千鶴を確認した後、大坂に向かった。
家茂将軍が京から大坂城に入城し、長州藩の処遇が決まるまで進軍を控え待機する事になった。薩摩藩はこの時期、公武合体派として積極的に幕政改革に取り掛かっていたが、将軍後見役の一橋慶喜の暗躍に手を焼き、次第に幕府への不信感を募らせることになった。
風間達は薩摩藩家老の命で、大坂と兵庫の港の見張りを続ける事になった。征長の戦がいつ始まるかも明確でなく、風間は薩摩藩との決別の目処が立たない事に苛立ちを抱えていた。薩摩藩への恩義さえ返せば、西国の鬼の里を人間の手の及ばぬ場所に移し平和に暮らせる。
それにしても、あの女鬼は自分が鬼である事も知らない様子だった。
風間は二条城で確認した千鶴の事を思い返した。年の頃は、十四、五。雪村の里を追われた時はまだ幼な子であったのだろう。身を護る為に人間として育てられたのか。自分の出自さえ知らぬ様であった。
高貴な血を引く者が、憐れなものだ。
あの様に男の格好をして、幕府の犬どもと行動を共にしているとは。田舎侍風情が必死に刃を向けて来るのが失笑ものであったが、例え髪の毛の先でも、我が身に刀で触った人間も珍しい。
新選組か。腕自慢の浪人集団が武功を上げる為に洛中で人を斬っていると聞いてはいたが、所詮は人間。弱く、目先の利潤で平気で裏切り、浅慮であざとい。薩摩藩に雪村綱道が移ったら、早々にあの女鬼を連れ帰ろう。風間は、傍らに居た天霧に大坂港で船を待つ不知火を呼ぶ様に命じた。不知火は将軍が大坂城で長州への進軍準備を開始した事で、一刻も早く腹心の高杉の元へ戻ろうと躍起になっていた。
「不知火、土佐行きの薩摩藩の船が明日出る事になりました」
天霧が船の手配に成功した事を伝えると。
「有難い、恩にきるぜ。俺ら鬼は陸路は走って行けるが、海をひとっ飛び出来ねえのが難儀だ」
「今宵は、川口の我々の宿にお越し下さい。風間がお待ちです」
「なんだ? 風間はまだ大坂に居たのか。 俺はてっきり神戸に移ったと思っていた。今朝早くにでっけえ軍艦が三隻通り過ぎて行った。何処の船か判らねえ。ありゃあ英吉利、和蘭陀、仏蘭西、亜米利加あたりじゃねえか」
此れを聞いて、天霧は不知火と急ぎ川口の風間の元へ戻った。風間は軍艦が大坂を通り過ぎたのは、恐らく川口が狭く入港出来ないからだろうと落ち着いた様子で、事を荒立てる必要はないと言った。
「風間、土佐行きの船の手配は恩にきる。夷狄が神戸を開港させるとなると、長州は黙っちゃあいねえ。俺は高杉と四国を出て長崎へ渡る」
「土佐に戻ったら、雪村綱道の動向を報せるよう頼むつもりであったが、それも叶わぬか」、と風間が呟く。
「あの蘭方医か。土佐を出る前に山内のご老公に挨拶に行く、その時に判った事は報せる」
「そういえば、二、三日前に備前藩の船が天保山に入って、南雲薫が降りて来たのを見た。供を引き連れて、直ぐに籠に乗って消えちまったが、間違えねえ」
「雪村綱道は?」
「いや、俺が見た限りでは一緒じゃなかった。二条城の雪村の女鬼だが、南雲薫とよく似てるぜ。年の頃も同じじゃねえか」
「俺はもうちょっと色っぽい姫さんを想像していたんだが、まだガキだったな」
不知火が胡座の上に肘を載せて顎に手をやった。
「男の格好をしているからでしょう。南雲家の頭領が上洛。土佐藩の動きも最近は活発と聞きます。開港派は朝廷にも幕府にも居ます。列強に開国を迫られれば、朝廷も幕府も長州征討どころではないでしょう」
天霧が土佐藩の様子と開国派についてそう言うと。
「攘夷を掲げる孝明天皇が何処まで抗うのか見ものだ」風間は皮肉を込めて呟く。
(雪村綱道の動向が明確にならぬ内は、雪村千鶴を西国に迎える事も出来ぬか)
風間は心中で残念に思った。列強の軍艦が神戸に入った事で暫くは港から動けないであろう。上洛して新選組屯所に出向くのは先になる。それまで、雪村千鶴をあの犬どもに護らせておくか。
あの武士気取りの田舎侍たちも、番犬代わりにはなるであろう。
風間は微笑しながら窓の外を眺めた。
浅葱色の羽織の連中に護られ、大きな瞳で真っ直ぐに自分を見つめてきた千鶴の事を思い返した。
いずれは、我が里に。
風間は本気で千鶴を鬼の郷に迎え入れようと思い始めていた。
つづく