濁りなき心に17
定期的に訪れる良順が、密かに山南や羅刹隊士、総司の診察をしていた事を千鶴は知らなかった。
ある雨上がりの午後に千鶴は境内を横切る良順の姿を見つけ、自分の記録した献立を見て貰おうと帳面を持って追い掛けた。良順は総司と境内の裏で待ち合わせていた様だった。
二人に近づくと、「残念ながら、君は労咳だ」と言う良順の声が聞こえた。千鶴は立ち止まり愕然とした。持っていた帳面を落としそうになった瞬間、背後から口を塞がれ壁の陰に引き寄せられた。
「動くな。総司は気配に聡い」
斎藤の厳しい口調に千鶴は身を硬くしたままじっとしていた。
良順は総司に直ぐに屯所を出て療養する様に勧めた。長くないなら、自分の命が果てるまで近藤と新選組を護って生きたい。そう話す総司の言葉が聞こえると、口を塞がれたままの千鶴の瞳から涙が溢れ落ちた。良順と総司が居なくなったのを確かめて、斎藤は震えている千鶴を離した。
「不躾な真似をして済まぬ」
背後から斎藤の声がしても、千鶴は俯いたままさめざめと泣き続けた。
斎藤は千鶴が気付く以前から、総司の容態が悪化し深刻な状態である事に気付いて居た。松本良順が頻繁に訪れ、総司を診察している事。総司が自分の咳を誰にも聞かれないよう、夜中に部屋を出て境内の裏でうずくまって朝まで耐えている事も……。
斎藤は日頃から総司の世話を一生懸命している千鶴を不憫に思った。死病と云われている労咳に総司が。斎藤自身も衝撃を受けながらも、千鶴がこれ以上新選組の暗闇に巻き込まれていく必要はないと思った。
「雪村、今聞いたことはなかった事に」
千鶴は目を見開き振り返った。
「総司の事は俺たち新選組で対処する」
突き放す様な言い方しか斎藤には出来なかった。千鶴は斎藤の目を見詰めながら、大きな瞳から更にポロポロと涙を流した。斎藤は自分が千鶴を泣かしてしまっている事にどう仕様もない気持ちになった。何も言葉が思いつかぬ。
茫然と立ち尽くす斎藤の前から千鶴はゆっくり後ずさると、帳面を抱えたまま部屋に帰った。斎藤は三番組の剣撃稽古に向かった。道場には総司の姿があった。木刀を抱えて、ぼんやりと壁に凭れて座っている。斎藤が平隊士を並べて素振りさせるのを見ると、総司は立ち上がって、隊士の構えを木刀の先で押さえながら修正する。もう久しく、一番組の稽古にも現れていなかった総司が再び道場に上がった。本来なら嬉しい事だが、斎藤は総司が剣を振るえる状態なのか、唯の空元気なのではと思った。
(決して、俺が立聞きしたと気付かれてはならぬ)
斎藤は、平隊士に素振りを続けさせ総司に近づいた。
「はじめくん、久しぶりにやろうよ」
総司は平隊士の構えを直しながら無表情のまま斎藤を誘った。
「よかろう」
斎藤は静かに応じると、素振りの後に隊を二人ずつに振り分けて打ち合いを始めた。総司は斎藤を相手に激しく攻めて来た、御堂の羅刹とは違う誤魔化しの効かない剣さばきに斎藤は舌を巻いた。
病で臥せっていたとは思えん。
総司の翡翠色の目は爛々と輝いていえる。斎藤の一撃に素早く躙り下がると、総司は口角を上げて攻めかかって来た。総司は興が高じると厄介な相手だ。気を抜く事が出来ぬ。俺とて御堂での闇練で鍛えてきた。決して遅れは取らぬ。斎藤は攻め込まれ、にじり下がった。
いつの間にか、斎藤と総司の打ち合いに平隊士は手を止めて壁側に下がった。道場の側を通り掛かった隊士が見物を始め、一番組の沖田と三番組の斎藤が真剣勝負をやっていると、屯所内に触れ回ったため、道場に見物の人集りが出来た。千鶴も部屋の外の騒ぎを聞いて、道場に駆けていった。山崎が厳しい表情で勝負を眺め、千鶴に気付くと土方を呼んでくると一言残し、その場を去った。
千鶴は二人の激しい打ち合いに二人の気持ちを察した。沖田さんと斎藤さんは共に此れからも闘う。斎藤さんも沖田さんも、新選組の為に命をかける覚悟で。
——聞かなかった事に。総司の事は新選組で対処する。
千鶴は、斎藤から言われた事を思い返した。なにも聞かなかった様に振る舞おう。私は今まで通りに沖田さんのお世話を続ければいい。新選組は沖田さんを失う事はない。こうしてずっと共に居るとお二人は決めていらっしゃる。
「おい、お前ら。其処までにしろ」
土方の怒鳴り声が道場に響いた。互角の勝負で双方とも引かない状態を土方は一喝した。睨み合っていた斎藤と総司は同時に木刀を下ろした。二人とも息が上がっていた。汗が光り、髪の毛まで濡れた様になっている。
「折角、面白くなって来たのに。ねえ、はじめくん」
斎藤は肩で息をしながら頷いた。
「一体、どう言う事だ。総司、お前は部屋で横になっている筈だろ」
「おい、斎藤。剣撃の稽古はどうなってんだ。隊士に打ち合いさせるならともかく。教えるのをそっちのけで師範が木刀を振り回してどうする」
「すみません」
斎藤は、深々と頭を下げた。
「稽古を再開しろ。おい、総司、松本先生がお前の部屋で待っている。直ぐに戻れ」
土方はそう言うと。見物に来ていた隊士達にも一喝した。隊士達は蜘蛛の子を散らしたように退散した。千鶴は山崎に呼び止められた。 松本良順から沖田の看護の方法を詳しく指導された山崎は千鶴に沖田の世話を手伝って欲しいと頼んで来た。千鶴は喜んで引き受けた。
「私は今まで通り、沖田さんの身体に良い事は何でも。山崎さん、よろしくお願いします」
千鶴は頭を下げた。山崎は安堵した様子だった。
「心強い。あの人は、局長と雪村くんの言う事なら素直に聞く」
山崎は微笑しながらそう言うと部屋に戻って行った。
千鶴は稽古を再開した斎藤を見つめた。汗だくのまま、真剣に教える斎藤の姿に、此れからもずっと自分の出来る事を斎藤の傍でして行こうと決心した。
つづく