小説 - 斎千 - 濁りなき心に

夏の終わり

濁りなき心に23

慶応元年八月

 茹だるような京の暑さも漸く朝夕が過ごし易くなって来た夕刻、千鶴は山崎の部屋に呼ばれた。

「雪村くん、此れを見て欲しい」

 山崎は、隊士の健康状態を記録した帳面を千鶴に見せた。

「治療中の者は、松本先生から治療方法も聞いて記してある。もし、自分に何かあった時は、この帳面を参考に君に隊士の看護をして欲しい」

 千鶴は目を見開いて、帳面を見た。びっしりと細かい字で記録された診断帳。此れを作った山崎の労力を思った。

「私に山崎さんの代わりは務まりません。ですが、私で良ければお手伝いします」

「有難う。正直、君にしか頼めないと思っていたから。本当に心強い。来月から暫く屯所を留守にして西国に出向かなければならなくなった」

 千鶴は、山崎の突然の任務に驚いた。

「今年に入ってから、近藤さんはずっと幕府に西国視察の嘆願書を出しておられた。隊士募集ではなく、長州や周辺諸国の偵察だ」

「来月、長州訊門使として西国に下られる。幕府大目付の永井主水様にお伴するそうだ」

「山崎さんも近藤さんに同行されるのですね」

「いや、俺はおそらく別行動になる。局長より先に行って、偵察をしながら諸国を回る」

 千鶴は山崎の任務の重大な事とそれに伴うであろう山崎の身の危険を思った。

「山崎さん、必ず戻って来て下さい。お留守の間、隊士さんのお世話をして待っています」

「有難う、雪村くん。西国は俺の親戚も方々に暮らして居る。土地に明るい事もあってこの任務に就いた。俺は、西洋の医術にも興味があるんだ。西国で新しい薬草や医術書を探す楽しみもある。必ず、良薬を持ち帰って、沖田さんを治す」

 笑顔で澄んだ瞳で真っ直ぐと千鶴を見つめながら、山崎はそう断言をした。

「はい」

と千鶴も笑顔で答えた。

***

 八月も終わりのある日。千鶴は近藤に呼ばれて、表階段に向かった。近藤は大きな西瓜を抱えて、千鶴に向かって笑顔を見せた。

「雪村くん、立派な西瓜だろう? 多磨でも此処まで良く育ったものは見たことが無い。今から井戸に置いておけば、夕刻には良く冷えて美味いぞ」

「はい、近藤さん。それでは井戸で冷やしておきます」

「わたしが井戸まで運ぼう」

 近藤はそう言うと、裏手の井戸まで千鶴と一緒に西瓜を運んだ。

「まだまだ、日中は暑いなあ。今日は此れからまた黒谷へ戻らねばならん」

「お役目、御苦労様です。近藤さん、冷やし飴を飲んで行ってください。今、お持ちします」

 井戸で汗を流す近藤を置いて、千鶴は台所に走った。台所で井上に会った。

「今、近藤さんが一旦戻られたので、冷やし飴を持って行きます。井上さんも如何ですか」

「そうかい、勇さんが。此処の所忙しいようで、屯所にも来ることがなかったからね。私は飲み物は要らないよ。冷やし飴はさぞかし勇さんも喜ぶだろう」

「はい」と千鶴は笑顔で応えると湯呑みと酒瓶に詰めた冷やし飴とお茶をお盆に載せて、近藤の元へ戻った。

 近藤は、集会所の前の石段に腰掛けて、汗を拭っていた。千鶴が飲み物を勧めると、喜んで飲み干した。

「近藤さんの声がすると思ったら。やっぱりそうだ」

 振り仰ぐと、周り廊下の上に総司が立っていた。

「おお、総司。今部屋に顔を見に行こうと思っていた。どうだ具合は?」

「こう暑いと部屋の中で茹だりそうですよ。今も厠へ行きがてら、廊下で涼んでたんです」

「そうか、起きていて大丈夫なら、こっちに来んか。今、雪村くんが飲み物を用意してくれてな」

 近藤が話している内に、総司は柱を器用に滑り降りてきた。千鶴は空いた湯呑みに冷やし飴を注いで総司に勧めた。

「これ、千鶴ちゃんは薬だからって、毎日僕に飲ませるんですよ」

 腰掛ける総司を眺めながら、近藤は頷き微笑む。

「ずっと屯所を留守にしていた。黒谷と二条城に行っていてな。おそらく、来月早々に将軍様が大坂から御上洛なさる」

「何か決まったの? 戦になるとか」

「ああ、新しい勅命が下るだろう。長州藩主への御沙汰をいろいろと理由をつけて先方は拒んでいる。幕府も長州を恭順させるのに手を焼いている」

「総司、俺は来月から西国に下る。長州訊門使の役につく」

「敵地に乗り込むんですね。僕も連れて行ってください、近藤さん」

「ああ、連れて行きたいのは山々だが、今回は西国諸藩の偵察任務だ。各地で遊説も行う。我々が攘夷の意志がある事を西国諸藩に知らせるいい機会だ」

「遊説って。伊東さんを連れて?」

「ああ、伊東先生と武田くんと同行する。我々は幕府大目付の永井様の御付きとして周る故、幕臣として振る舞わねばならん」

「ふーん、武田さんと伊東さんか。じゃあ、僕は、近藤さんに何かあれば、直ぐに助けに行けるよう準備しておきますよ」

「おお、そうか。総司、心強い。留守中は新選組を宜しく頼む。あと、俺が留守中に多磨から便りがあれば、俺は心配ないと代わりに返事をしておいてくれ」

 総司の瞳が光った。一瞬、真剣な表情をしたが、直ぐに笑顔になった。

「僕が返信するんじゃなくて、近藤さんの字で文を書いておきますよ」

「おお、真似字か。あれはウチのでも見分けが付かんらしい。ハハハ、悪気の無いものでなければ良しとしよう。総司、頼んだぞ」

 近藤は笑顔でそう言うと、立ち上がった。

「雪村くん、ご馳走になった。此れから黒谷に出向いて、屯所には西国に向かう前に戻る。水菓子は幹部皆で食べてくれたまえ」

「はい、近藤さん、どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」

 千鶴と総司は近藤を見送った。

「沖田さん、近藤さんが大きな西瓜を下さったんです。井戸で冷やしているので、夕刻にお出ししますね」

「千鶴ちゃん、僕此れから昼寝するから、起こさないで」

 総司はそう言うと、周り階段まで柱を器用に登った。

「はい、それでは、夕餉の準備が出来たらお声掛けします」

「うん、そうして。僕、今夜は広間で食べるよ」

 千鶴は周り廊下の角に消える総司を見送ると、お盆を下げて台所に向かった。

 夕餉の並べられた広間に久し振りに総司が現れ、幹部の皆と食事をした。顔色は悪いが、いつもと違い良く食べ、水菓子にも手をつけた。食事が終わると、総司は斎藤に近づいた。

「はじめくん、今夜御堂の稽古。僕も行くから」

 そう言って笑うと、総司は部屋に戻って行った。斎藤は、そのまま山南の部屋に向かい、裏の御堂の埃払いがしたいと申し出た。山南は日没後なら、羅刹隊で清掃することは可能だと請け負ってくれた。斎藤は、夜四つまで総司に待つように伝えると、急いで御堂の扉を開け放って清掃した。

 窓や扉を四方開けると御堂は至って風通しが良く快適な事に気付いた。隙間を上手く開けて、蝋燭を灯さずにおけば、部外者には判るまい。斎藤は、道場の準備を整えると、総司を呼びに行った。その夜から、総司は朝の巡察と御堂での闇練に励むようになった。そして日中は良く眠る様になり、食欲も少し出てきた。千鶴は張り切って、総司の献立を考えた。

 この夏の終わりの鍛錬を、後年、斎藤は時折思い返す様になる。総司の剣は凄まじい強さで、山南を始め羅刹隊を震撼させた。 斎藤も御堂での鍛錬の為に日中時間を見つけては仮眠を取るまでになった。千鶴は斎藤が牛の乳を飲むと眠くなるというので、仮眠しやすい様に甘く味付けて冷やした乳や寒天固めを常に用意した。総司も、睡眠しやすいという暗示で我慢して斎藤と一緒に牛乳を飲んだ。

 診察に来た松本良順が、総司の容態が良好な事に喜んでいた。一方で、羅刹隊が血に狂う傾向が強くなっている事を危惧した。山南に羅刹の発作を抑える薬を与えたが、まだ試薬段階で、飲み続けると効かなくなる可能性が高い事を説明した。

 山南は改良型変若水の開発と良順の与える薬の成分の調査に取り掛かった。

つづく