明暁に向かいて その48 番外編
明治十三年五月
八瀬の御所車が新緑の中を駆け抜けていた。
御簾を高く上げた窓から、子供たちが身を乗り出すように木洩れ日の輝きに声を挙げて喜んでいる。薫風が吹き抜ける。土方は、遠い日を思い出していた。新政府軍との戦いで負傷し、会津へ搬送された日。人夫が用意した輿のようなもので運ばれた。手負いの傷で意識が朦朧とする中、緑と陽の光が眩しかった。時々吹き抜ける風に、自分が敵から無事に逃れて生きていることを実感していた。不思議なものだ。この山を通ったのは、もう何年も前のことなのに……。腕の中では、娘の美禰子がすやすやと気持ちよさそうに眠っている。隣に座るお多佳は、窓から見える景色に目を細めていた。
「もうそろそろ着くころです」
千鶴は、雪村の鬼塚に近づいた気配を感じて、そう言うと。子供たちを促して草履や羽織を着せかけた。車がゆっくりと速度を落とすように停まると、斎藤が下の子供を抱きかかえて、引き戸を開いて降り立った。車の外では、雪村の郷を守る地頭の田村小十郎が待ち受けていた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
頭を深々と下げた小十郎は、足台を置いて千鶴やお多佳が降り立つのを手伝うと、豊誠が元気に挨拶をしながら車から飛び降りたのを嬉しそうに眺めていた。最後に美禰子を抱いた土方が車から降りると、恭しく頭を下げて自分から雪村の郷を守る者だと名乗り出た。
「西村義三です。お世話をかける」と言って、土方は深々と頭を下げた。
田村は、垢ぬけた洋装で降り立った長身の土方を見上げながら、「よくおいで下さいました、さあ、こちらへ」と道案内を始めた。千鶴は先に駆けだした子供たちが林の向こうに消えていくのを見ながら、斎藤が差し出す手をとった。ひんやりとした空気は、夏に訪れる時より春先のような冷たさを感じる。淡い緑の向こうに、以前とは違った風景が広がっていた。沢山の建屋。まるで寝殿造りのように、以前にあった母屋から建屋同士が美しい渡り廊下で繋がっていた。小さな庭があった場所が広げられて、大きな中庭ができ、池まで掘られていた。屋敷周りは低い竹塀がところどころに立ててあるが、裏山や森からは隔てられておらず、屋敷が自然に守られて建っているような風情があった。千鶴は感嘆の声しか上がらない。そして、既に中庭から雪村の泉まで敷石が清められてところどころに櫓が建っているのが見えた。
「今夜の儀式の祭壇にございます」
小十郎が説明しながら櫓の向こうに見える白木が組まれた一角を指さした。このような設えを、どれ程の準備をされてきたのだろう。嬉しそうに説明して廻る小十郎の話を聞きながら、千鶴と斎藤は感心しながら目を合せるしかなかった。土方は、お多佳とずっと郷全体を眺めながら、「いいところだ」と溜息をついて居た。そして、斎藤たちは小十郎に案内されて、母屋の玄関をくぐった。
「御方さまが御戻りになりました!!」
大声で、叫ぶように小十郎が声を掛けると、廊下の奥から君菊と葵が姿を見せた。千鶴は、葵との久しぶりの再会に悦びの声をあげた。斗南で最後に会ったのは、もう何年も前のこと。葵はふっくらとして見えた。真っ黒な垂髪を後ろで結び、小袖に低く結んだ帯。葵は水桝と水榊の儀式で、雪村の泉の祭壇を清める役目を担っていた。上り口から土方達を広間に案内している間に、斎藤と千鶴の子供たちが、森の中を一周してようやく母屋に辿り着いた。
二人は、ばたばたと廊下を走って広間にやって来ると、そこで迎えた千姫たちに元気に挨拶した。
「豊誠ちゃん、お昼を食べ終わったらお式の準備に入るから。お散歩はそれまでにね」
「土方さんは、衣装合わせをしますので、一服されたらお部屋にご案内します」
千姫は式次第を片手に、小十郎や君菊に細かい指示をしている。千鶴は、土方達の滞在する離れに一家を案内した。それは、中庭を見渡せる東側の建屋で立派な書院造。土方が座布に腰かけた時に、腕の中の美禰子が目を覚ました。きょとんと辺りを見回して不思議そうな顔をしている美禰子は、土方に抱っこをされたまま廊下に出た。葵が炭入れを持って現れて、火鉢に炭を置いて襖を閉じた。
「朝晩もですが、日中もまだまだこちらは冷えます」
「綿入れもご用意してございますので」
そう言って、着物入れに長丹前が畳んで置かれているのを差し出した。お多佳が美禰子のおしめを取り替えようと荷物を解くと、葵は湯たんぽで温めた座布を持ってきてお多佳を喜ばせた。
「それでは、土方様、奥様、どうぞごゆるりと」
「正午に広間で午餐を用意いたします」
「世話をかけるな。ありがとう」
土方は微笑みかけた。葵は、頭を下げて土方たちに微笑み返した。そして、中庭で遊び回る子供たちに目をやると、感慨深い様子で、土方たちに会釈をしてから部屋を下がった。
「葵には京に居た頃、世話になった」
廊下を歩いていく葵を眺めながら、土方はお多佳に話すと、おしめを取り替え終わった美禰子を連れて中庭に降り立った。最近、美禰子は少しずつ歩き始めた。小さな羊の革で作らせた足袋を履いた美禰子は、数歩歩いてはお尻をついて座り込む。庭には小さな苔がむしていて地面が柔らかい。美禰子は豊誠と剛志の姿を見つけると、きゃっきゃと声をあげて近づいていった。豊誠が美禰子を抱き上げて、池を飛び越えてみせた。一瞬の出来事で、土方もお多佳もあ然としている。剛志が真似をしようと駆け出したが、千鶴が母屋から「坊や、いけません」と叫ぶ声が聞こえた。
「剛志、先にそっちの石に乗って」
豊誠が池のほとりにある大きな御影石を指さした。剛志は、そこに向かってトコトコと走っていった。渡り廊下で血相を変えた千鶴が柱に掴まって、「待って」と言っている。すでに、石の上には豊誠が飛び乗っていて、下にいる弟の腕を掴んで引き揚げた。ほっとした千鶴は、溜息をついたが、直ぐに渡り廊下を走って池に近づくと、「美禰子ちゃんを下ろしなさい!!」と叫んでいる。
——かまわねえよ。
土方は、笑いながら子供たちを眺めていた。温かい光が射す中庭で、三人の子供が仲睦まじく遊び回るのを、土方とお多佳は嬉しそうに眺めていた。
*****
西の棟の客人
光の射す中庭で子供たちが戯れるのをじっと眺めている者がいた。
高座の間で脇息に凭れながら、ゆっくりと煙管を吹かせている西国の棟梁。傍らに座る天霧が、「雪村の御一家が無事に到着されたようですね」と静かに呟いた。天霧は、主人に母屋にご挨拶に行かれた方がいいと進言したが、風間は一向に腰を上げる様子はない。二服目の煙をゆっくりと吐き出した後、煙管を空にすると、再び中庭に目をやった後に、母屋の廊下に佇む千鶴の姿をじっと見つめていた。
黒い大きな瞳。
変わらぬ。
もう十二年も前になるのか。戦場で別れたきり。あの夜に見つめ合った瞳は決して忘れぬ。雪村の娘。その強い意志で戦を生き抜き会津に身を投じた。人間と共に。か弱い女鬼が子を成し、再び雪村の郷に佇む姿は感慨深いものがあった。
滅びの郷の姫。
雪村の御方。強き善き鬼を産み、こうして東国に再び主が立つ。東西の鬼の国が揃い古のように、日が昇るこの東国から陽が沈む我が郷まで。十二年前に心中に誓った事がこうして……。
「挨拶は、午餐の時に広間ですればよい」
「義理堅い雪村の娘のことだ」
「煩わすのは忍びない」
呟くように静かに応えた風間は、廊下を母屋に向かって戻っていく千鶴の後ろ姿を目で追っていた。長く艶やかな黒い垂髪をレースのリボンで結わえた姿は、今もって少女然としている。ふとその後ろ姿は、京で見かけた男装束の小さな姿を思い出させた。独り微笑む風間に、天霧が儀式次第を取り出して、段取りの説明を始めた。
「よい、一度目を通せば頭には入っている」
風間は面倒そうに、足を組み直すと酒の載った盆を引き寄せて、手酌で飲み始めた。
「式の前でございます。控えられますよう」
天霧は、すかさず盆を主人から遠ざけた。午餐前に朝から御酒を召し上がるなど、いくら客人とはいえ。礼儀にもとるもの。お控えられよ。厳しい口調で風間を窘めた。風間はさも可笑しいといった風情で鼻からふっと声をたてると、くっくくっと笑い出した。
「目出度き日を祝っておるのだ。今宵の儀で、この身は清められる」
「その儀式に立たれる折、ふらつかれては」
「西国の棟梁たるもの、手堅く、儀式の手順におかれましては」
天霧の小言は止まらない。風間は、ずっと鼻であしらうように笑い続けた。
「このように愉快な心持ちは、久しい。そなたも午餐前に一杯やっておけ」
天霧は、風間が随分と機嫌がよい事にただ驚くばかりだった。今朝がた早くに、千姫が部屋に現れて、雪村の一家が郷に到着したら、出迎えて歓迎をすることを要求した。まだ寝間の中にいた風間は、横柄な態度のまま「客人の寝所に乗り込むとは」と千姫の非礼をからかった。
「あなたは、客人ではないわよ、風間」
「西の屋敷に滞在してもらっているのは、あなたが烏帽子親になるため」
「大役なんだから、わきまえてちょうだい」
千姫は小鼻を膨らませて捲し立てた。その儀式の執り行いは、八瀬の姫が全てを取り仕切る。古からの鬼の誇りをかけて。風間は笑いながら、首を縦に振った。
「わかっておるわ」
「男の寝間を襲うのが、八瀬の女鬼の作法か」
気だるい声で、揶揄するように風間が呟いた。
「そんなわけないでしょ!!」
千姫は怒髪天で地団駄を踏み始めた。
「あなたに迫るなんて、天変地異が起きてもないわ」
「たとえ、お日様が西から昇ってもよ」
「絶対にないから」
——なんだ、襲って欲しいのか。
上から影が差したような気がして見上げると、風間が寝間着のまま目の前に立っていた。よく響く声で、微笑みながら尋ねるその瞳は、深紅に輝いている。金色の睫毛は長く。伏見がちに千姫の唇をじっと眺めていた。千姫の背中の毛が一気によだった。目の前には寝間着のはだけた襟元から逞しい胸板が見えて居る。
「なんで、あなたに襲われなきゃいけないのよ」
「己惚れるのもいい加減にしなさいよ」
「あんたなんか、儀式がなければ此処に呼ばれもしないんだから」
風間は、ふっと笑い声を立てたが、ずっと千姫を見下ろす瞳が一瞬翳りを見せた。
——今宵の儀は順風にとりおこなう。
「案ずるでない」
じっと千姫の眼を見詰める風間の表情は真剣だった。風間の胸を両手で抵抗するように押していた千姫の手を取ると、優しく温めるように包んだ風間は、今から着替えて準備をするからと障子の外に千姫を連れ出し、そのまま背中を向けて部屋に戻って行った。
******
午餐の席
母屋の広間で、千鶴たちの到着を歓迎する食事会が開かれた。
西の棟からは風間千景、東の棟からは土方一家、母屋の向かいの北の棟からは千姫。それぞれが向かい合う形で着席した。千鶴は、豊誠と一緒に立ち上がり、風間の前に座って深々と頭を下げて挨拶をした。
「風間さん、やっと息子とご挨拶ができます」
「雪村の郷を戻してくださり、本当に感謝しています。どうも有難うございました」
「長男の豊誠です」
子供は、「ふじたゆたかです」と大きな声で自己紹介をして、丁寧に両手をついてお辞儀をした。風間は真剣な表情で子供を見詰めていた。そして、おもむろに背筋を伸ばすと、
「西海九国の鬼頭、風間千景と申す。以降お見知りおくよう」
そう言って、深々と頭を下げた。この様に慇懃な風間を千姫は初めて目にして、琥珀色の瞳を一段と大きくしている。風間は、「眷属一同、壮健な様子。喜ばしいことだ」と良く響く声で、千鶴の瞳を見返して微笑んだ。そして、その背後に座る、斎藤に頭を傾げるように挨拶をした。斎藤も、かしこまって頭を下げた。千鶴と豊誠が席に戻ると、千姫が土方一家を風間に紹介した。千鶴は、緊張した空気が走ったのを感じた。息を呑んでいると。土方が、先に一声を放った。
「随分と無沙汰をしていた。今は【西村】と名乗っている」
——貴様が生きていたとはな。
互いが、心中で思っていることは全く同じだった。挑むような視線を交わしあう。一発触発のような空気が流れた。千鶴は、息を潜めて隣に座る斎藤に助けを求めた。斎藤は、じっと冷静に二人を見ていた。両の手を膝に置いている斎藤は、背筋を伸ばしたまま、無言なままに案ずるなという意思が千鶴に伝わった。はい、はじめさん。千鶴は心中で応えた。暫くの沈黙の後、風間の方が、先に口角を持ち上げた。
「西村、我が郷にここ最近、交易で西洋革靴が出回わるようになった。其方の造っているものらしい」
「とても歩きやすいと評判だ」
土方は、微笑みながら話す風間の友好的な態度に内心驚いた。日の本中に自分の靴を広めようとしている土方の野望を、風間は知っているかのように話す。
「ありがとう。そう言ってもらえると、作っている甲斐がある」
土方の良く響く声が部屋に響く。その隣に腰かけていた、お多佳が一緒に頭を下げて、恭しく礼をいった。風間は、その律儀なお多佳の様子に好感を持った様子だった。千姫は、天霧を土方一家に紹介した後に、酒が振る舞われて全員で乾杯をした。千姫は、見事な接待ぶりで午餐は和やかな雰囲気のまま終わった。
食事の後は、すぐに儀式の準備に取り掛からなければならず、豊誠と土方は衣装合わせの為に、北の棟の奥の間に呼ばれ、君菊と千姫が甲斐甲斐しく世話をした。その間、千鶴は次々に到着する参列客を出迎えるのに忙しかった。斎藤は、小十郎に屋敷の離れと、郷の工事がどのように進んだのか細かく説明を受けた。母屋の裏側に、来客用の離れが建てられていて、これから到着する客がそこに滞在できるようになっていた。去年の秋口から始めた郷の改修工事は春先に完成し、五十五夜の儀に間に合ったと小十郎は嬉しそうに報告した。
日の本中の鬼が集まる。そう聞いていた千鶴は、三十名程の来賓を快く出迎えていた。中には、腰が曲がって御所車から降りることも困難な長老がいた。杖をつきながら、ようやく一歩を地面につけた老人に千鶴が手を差し伸べると、顔を上げた老人は窪んだ小さな眼を見開いた。瞳は靄がかかったように白くなっているが、だんだんと両の眼に涙が溢れて老人は深々と頭を下げた。
「先の御方さまに瓜二つであられる」
震える手を併せて、何度も深くお辞儀をする。老人を支えるように背後にたった青年が千鶴に挨拶をした。
「陸奥仙台の田村鷹司にございます」
千鶴は、以前儀式の知らせを受け取った田村家の地頭と言われて、改めて礼を言って挨拶した。
「さあ、おじじ様」
鷹司は、老人を補助するようにいざなって離れに向かった。この長老は先々代の陸奥仙台の地頭。千鶴の母親を生前より良く知り、こうして再び雪村の姫に会えた事がこの世に生きながらえた喜びだと有難がった。郷を廻っていた斎藤が千鶴の元に来て、一緒に次々と到着する来賓を出迎えた。最後に出迎えたのは、不知火だった。西国の長老たちを引き連れて、大きな御所車から下り立った不知火は、立派な郷の様子に驚きの声をあげた。
「風間も随分と張り込んだもんだ」
不知火は、羽織袴姿の長老たちの中で一人、洋装でずかずかと歩いている。光沢のある革で出来たフロックコートに、編上げの長靴。派手な模様の織物で出来た中着に腰には短剣と短銃を下げている。褐色に日焼けした顔で笑いかける白い歯が印象的だった。
「坊主は、昼寝中か?」と辺りを見回しながら、千鶴と斎藤に訊ねた。千鶴は、「東の棟」で土方の子供と一緒に遊んでいますと応えた。千鶴は、不知火を「西の棟」の風間の滞在する部屋の隣へ案内した。そして、台所で東京からの土産物のお茶菓子を取り出し、お茶を煎れて西の棟に運んだ。
風間は、千鶴が自らお茶を用意して西の棟の客人をもてなす事を喜んだ。丁寧な所作でお茶を差し出して、無事に来賓が揃ったことを喜ぶ千鶴は、こうして風間たち三人と雪村の郷で会えたことが嬉しいと感慨深く話した。
——先々の戦では、この郷を守ってくださり有難うございました。
復興にご尽力いただいた事は、みなさんに心の底から感謝しております。
「この御恩をどう返せばいいものか。風間さんには、何もかもお世話になるばかりで……」
言葉が続かない様子の千鶴を風間はじっと見つめていた。
「郷の復興は、姫さんを嫁に貰うあてが外れた風間が好きでやったこった」
既に足を崩して胡坐をかいていた不知火が、「なあ、風間」となかば強制的に同意させた。風間は、和やかな表情のままくつろいでいる。不知火が、西国の長老を連れて仙台に立ち寄ってから、鬼塚を目指した道のりを話した。長老たちは、陸奥国(みちのく)の鬼との再会を殊の外喜んでいるという。
「俺の爺様もそうだが、西国の長老は原神仕えとして持ち回りで東国に出仕した」
「陸奥国の再興は、我ら原神仕えの末裔も悲願していたことだ」
「今日は、仙台からずっと、じい様たちは、鬼塚全てに豊受の祝詞を上げて来た」
千鶴は、不知火の一行が東国中を祝福して廻って来てくれた事にも感謝した。そして、目の前の不知火が、雪村の郷に縁を持つ鬼であることの不思議を思った。いつも新しい、広い世の中を飛び回っている不知火さん。伝統を重んじる風間や八瀬の千姫とは違い、古い仕来りにはこだわらない鬼であると、勝手に思い込んでいた。千鶴は、不知火が日本各地の鬼の国を見分して廻るのも、原神仕えであるからと初めて知った。本当に、鬼の世界の事は、千鶴の知らない事ばかりである。
風間たちが和やかに談笑するのを、千鶴はずっと微笑みながら聴いていた。すると、バタバタと廊下を走る音が聞こえて、着替えも途中の豊誠が、木刀を片手に部屋の前に現れた。
「こんにちは、不知火」
笑顔で、廊下に正座して挨拶した子供は、うずうずとした様子でずっと三人の鬼を見ている。不知火は、身を起こして「よお、大将」と立ち上がった。
「わかった。どこに行く」
「大きな岩のある滝。僕が連れて行く」
不知火は上着を羽織って、腰に短剣を刺した。千鶴は、立ち上がった息子の着替えを手伝いながら、「どこへ行くんです。まだ衣装合わせの途中じゃないの」と訊ねたが、子供は、「もう終わった」、「遊んでいいって言われた」と言って、不知火と一緒に中庭に降り立った瞬間、風のように姿を消した。
千鶴は、廊下で正座したまま茫然としていた。
「豊誠様は、不知火に大層なつかれておられる」
天霧が微笑みながら、千鶴に話しかけた。千鶴は振り返って、部屋の中に戻ると。「はい、とても」と応えた。
「まだ小さな時からです。息子たちは、不知火さんが大好きなんです」
「不知火から、ご子息のことは聞き及んでおります」
「お二人とも、大層鬼の力が強いと」
天霧は嬉しそうに話す。こうして、鬼の一族と話すと、「鬼の力」を持つことがとても大切で重んじられていることが判る。千鶴は、女鬼であるがゆえ、子供たちのような怪力を持ち合わせてはいない。身体の傷が直ぐに癒える力。この特性しか千鶴には備わっていないと思っていた。千鶴は、「鬼の力」にはさまざまな力があって、一族ごとに、個々の鬼ごとに異なっているという天霧の説明を聞いて不思議に思った。
「雪村の鬼として、とうに覚醒しておる」
風間が煙管に火をつけながら、呟いた。千鶴は、風間が自分の息子たちの事を話しているのか、判らなかった。風間は、ゆっくりと煙を吐き出して、暫く物思いに耽っているようだった。
「今宵の儀式で、雪村の主となる」
風間はじっと千鶴の瞳を見詰めながらそう言うと、ぽんと煙管を空にした。
「案ずる必要はない。齢七つは、人間にしては子供だと思うだろう。強き鬼の血を受けた者は、生まれた時から一族の主となる力を備えておる」
風間の良く響く声は、千鶴を包み込むように優しく、心中の不安を取り除いてくれるようだった。千鶴は、ただ頷くことしかできない。
「風間が元服をしたのは、満三つの春でした」
「先代の棟梁が不在のまま、風間家の主。西国の鬼頭となられた」
千鶴は、「まあ」という声もでない様子で、口を開いたままでいる。風間は、愉快な様子で肩を揺らして笑い出した。
「満三つは赤子だと言いたいか」
「はい」
千鶴は、素直に応えた。下の息子が満二歳。来年に元服して一家の主になるなんて。
「風間家には家老、若年寄りが七人おりました。一族の政は風間が十歳を過ぎるまで臣下の我々で担っておりましたゆえ」
「鬼の郷を出て、人間の世に見聞に出られたのが十歳の時。江戸へ出られた」
「江戸に?」
「御殿山近くの藩屋敷に住んでおった」
千鶴は、風間が薩摩藩の庇護のもと江戸に暮らし学んだことを初めて知った。鬼の国の主が、人の世の中を見てどのように感じていたのだろう。千鶴は、風間少年がその強い鬼の力を息子と同じように持て余していたのでは、と思った。
風間は薩摩藩士の若者として人間と共に暮らし各地で遊学した。見聞は広まったと笑っているが、西国の鬼の郷が日の本で一番落ち着く場所だと言った。いつか千鶴たち一家にも来て欲しいと申し出て、千鶴を喜ばせた。風間たちとの談笑は時を忘れるほど楽しかった。千鶴は、千姫に儀式の着替えが始まったからと、母屋に呼ばれて斎藤や子供の仕度を始めた。
*****
大滝にて
不知火と豊誠は、雪村の結界近くにある崖の下に来ていた。
大滝と言われているが、清涼な水が白い水しぶきと一緒に静かに落ちている。不知火は、崖の上まで岩から岩に飛び移りながら、一気に登った。子供もそのあとに続いた。気持ちのいい風が吹いている。
「飛び降りるぜ」
崖っぷちに立った不知火が、子供に振り返って笑いかけた。わざと身体を板のようにして落ちるように飛び立った。豊誠も後に続いた。滝の上で水しぶきを感じながら落ちて行く。不知火は豊誠が気丈に滝を通るように飛び降りて来た姿を見て笑った。二人で、滝つぼに落ちる寸前で岩に飛び移るように着地した。
「今度は、【滝昇り】だ」
「ちょいと難しい。大将は、俺の後の路に入ればいい」
そう言って、不知火は滝つぼに飛び込んで行った。水の中を不知火が昇っていく。豊誠も後に続いた。水は、豊誠の周りにぐるぐると渦巻くように動いて空洞を作った。足元の水が自分の身体を押し上げる。気持ちがいい。前にいる不知火に直ぐに追いついた。不知火に手を伸ばして、自分の空洞の中に引っ張ると、水の空洞はいよいよ勢いを早めてどんどんと上に上がって行く。
水しぶきで髪が濡れた不知火は、目を見開いたまま「なんだこりゃ」と声をあげた。あっという間に崖の上に出た、豊誠たちは、自分の周りに大きな水の塊を作ったまま、空高く昇って行った。空洞の周りにぐるぐると回る水しぶき。まるで碧い硝子の珠のようになって、その向こうに辺りの景色が見えた。崖も山も全てが小さくなる。どんどんどんどん。離れて行く。真っ白なのは雲の中だ。どこまで上がる。天空か。不知火は隣の豊誠をみた。銀色の髪に金色の眼。全身が白く輝き、立派な鬼の角が四本。その小さな額から伸びている。
水の珠の向こうは真っ暗闇。小さな星が見える。無数の光。なんだ、これは。もう空でもねえ。
宙に浮かぶ豊誠は、不知火に向き合うように微笑んでいる。その背後に明るい光が見えた。中に何かが居る。なんだ。大将、いってえ何が起きている。
少年の背後から大きな影が持ち上がった。丸く大きな頭。その形は巨大な亀の頭のように見えた。まるで少年を守るように、後光を放ちながらもたげた首は、すっくと立ちあがってじっとこっちを見ている。その姿は古の神。水を司る玄武。そして、笑いかける少年と玄武の周りを白い大きな蛇が二匹。互いの尻尾を口に咥えてぐるぐると回っている。不知火は、腰を抜かすほど驚いた。
玄武か。あんたの魂は……。
滝の水を全て引き連れて、俺をこんなところまで。
微笑む豊誠は、ゆっくりと不知火に手を差し出した。不知火が手を差し伸べるとそれをしっかり握っていざなうように、下り始めた。どんどんと落ちるように進む。天海から天地へ。
轟轟と音がする中で、頭を下にどんどんと進む。気づくと自分と豊誠を挟むように二匹の白蛇が水の壁と一緒に進んでいる。山が見え、緑が見えた。あれは、白山。飛び立った崖が見えた。水の珠は大きな水しぶきをたてて、地面に降り立った。物凄い勢いで水が流れる。その中を不知火の手をとった豊誠がぐんぐんと進んでいった。もう髪は元の色に戻り少年の姿になっている。気持ちよさそうに水の珠の中を真っ逆さまに滝つぼに向かって落ちて行く。水の珠が水面で弾けた。不知火は自分の身体が水に溶けた気がした。俺は、水の泡になったか。全身が細かな水の粒に。軽い、なにもかもが。ゆっくりと小さな硝子玉のような水が陽の光で輝くのが見えた。俺は何処へ行く。大将、どうなってんだ。
不知火は宙をゆっくりと浮かぶように飛んでいた。全ての動きが止まったように見える。ただ空中に無数に浮かぶ、水の粒が美しく。輝きの中で隣にいる少年に笑いかけた。豊誠は、不知火の手を取ったまま。ゆっくりと地面に着地した。
大滝の飛泉は最初に見たときより、大きな落水になっていた。水しぶきが霧のように広がる辺りは、地面も岩も苔もしっとりと濡れている。水に濡れた二人は、互いの顔を見合わせて笑い合った。不知火が近くの日の当たる大きな岩の上に、豊誠を抱えて飛び移ると、二人で日向ぼっこをするように仰向けになった。
——あー、気持ちがいい。
「大将、オレは珍しいものが大好きだ」
不知火は天に向かって話す。
珍しいもの、見た事もねえものを見るために世界中を旅している。
「大将が見せてくれたものは、天界だ」
そう言って、不知火はワハハハと大きな声で笑った。
「オレもいろんな所へ行ったが、こんなにたまげた事はねえ」
「ありがとうよ。船頭役の俺が、大将に空の海に連れて行かれたって。洒落にもならねえ」
「玄武の神さんも眼にすることができた」
豊誠は嬉しそうな顔をしている。
「大したもんだ」
そう言って豊誠の頭をぐしゃぐしゃと撫でて喜んでいる。豊誠は、不知火は土方と似ていると思った。自分のやることを面白そうに一緒に楽しんでくれる。豊誠は不知火が大好きだった。
「さあ、大将。そろそろ戻ろう。これから大役が控えている」
不知火は、豊誠を大切そうに抱えると、ひとっ飛びで郷の屋敷に戻って行った。
******
水桝、水榊の儀
陽が落ちて、薄簿の刻。
水干姿に着替えた豊誠は、烏帽子親の風間と土方に連れられて、雪村の郷の泉の祭壇に上がった。
厳粛な雰囲気の中、松明の灯の下で、大きな檜の桝に豊誠が雪村の泉の水を掬って水を汲み、祭壇に捧げた。神聖な水。千年万年の長を受ける命の泉。
雪村の主として
泉を守り
この身を捧げます
祝詞を唱える豊誠は、水桝の水を榊に掛けて、参列する皆にお祓いを行う。頭を垂れて、大祓いをされた者たちは、一礼をして祭壇の傍から下がった。郷の四方八方にも祓いを行う。千鶴は斎藤に肩を抱かれるようにしてその姿を見守った。小さな息子。その立派な振る舞いに驚く。郷を全て清め、皆の平穏と長寿を祈る姿は、神々しさまで感じる。気づくと千鶴の両目から涙が溢れでていた。斎藤が、髪に優しく口づけたのを感じた。はじめさん、こんな日が迎えられることに感謝します。
水榊の儀は、順風に進み、一同は母屋の広間に集まって、祝いの宴を開いた。
来賓の各国の鬼の自己紹介と挨拶が交わされ、そのあとは飲んで歌う和やかな席になった。豊誠もそうだが、剛志と土方の娘の美禰子も人々に引っ張りだこで、美禰子の愛らしさは、日の本一だ。将来どのような美しい姫に成長するか楽しみだと皆が声を揃えて言った。土方もお多佳も我が子を褒められて喜んでいたが、西国の長老が、是非「西国の棟梁の嫁御に」と言い出した途端、土方の表情が豹変した。西国の棟梁だと。誰だ!!
風間は、反対側の膳の前で余裕の表情で酒を飲んでいた。自分を睨みつける土方を見て、鼻であしらうように笑った。土方は、箸を握って膝を立てた。お多佳が、さっと右手をだして制止した。お多佳は、落ち着いた様子で土方が足を戻すまで、そっと抑えるように膝に手を置いて落ち着けた。お銚子を持って、土方に酒を注ぐように近寄ると、「歳三さん、美禰子はわたしがやりません」
そう言って、杯を土方に持たせた。土方はお多佳の顔を見た。美しく微笑んだお多佳は、
——西国にはやりません。ご安心を。
囁くようにそう言って、土方の眼を見詰めて微笑んだ。お多佳の声は土方を安心させた。
そうだ。
あったりまえだ。
美禰子は誰にも渡さねえ。
土方は、風間を睨みつけた。風間は、挑発するかのようにお膳の前を這うように近づいた美禰子を抱き上げて膝に乗せた。確かに愛らしく美しい子だ。奥方によく似ておる。美禰子は人見知りもせずに、風間の下垂れの紐を引っ張っている。さっと前に影が出来た。土方が目の前に立って、睨みつけている。仕方のない人間だ。多分に漏れず、了見の狭い男親だ。風間の腕から美禰子を取り上げた土方の背中をみて、呆れて溜息が出た。
西国の長老は、離れた席で談笑する千鶴の美しさにうっとりと見とれている。目の黒い内にこうして東国の姫を目にすることが出来て良かったと皆が声を揃えていた。
——それにしても、花の郷の御台所に生き写しだ。
御方様も黒い瞳が美しい方だった。
そんな声がひそひそと聞こえていた。風間は、長老たちと同じようにずっと千鶴を眺めていた。子供の世話をしながら、傍らの夫に傅き幸せそうな様子に、やっとその姿を実際に目にすることが出来て良かったと思った。
祝いの宴は、夜更けまで続いた。それぞれが席を立って自室に戻り。郷は静かになった。
*****
泉の源泉
千鶴は、夜中に斎藤が起き出して裏庭に出ていく姿を見た。そっと、羽織を肩にかけて後を追いかけた。月明かりもなく、真っ暗な中を、斎藤の白い寝間着が浮かび上がっている。
「はじめさん、どこへ」
千鶴は、咄嗟に裸足で地面に降り立って駆け寄った。振り返った斎藤は驚いていた。
「すまん、お越してしまったか」そう言って、千鶴の元に近づいた。
「ええ、隣に居なかったので。どこへ行かれるのです。厠ですか」
「いや、水を飲みに」
「泉の水が飲みたい」
「ちょっと行って参る。直ぐに戻るゆえ、床に戻っていてくれ」
そういって斎藤は裏山へ入って行こうとする。
「泉の水って、祭壇はこっちですよ」
「祭壇には、俺は近づけん」
「もう一つの雪村の泉の源泉がある。小十郎に教えて貰った」
「待ってください。山の中へ行かれるのですか」
「ああ、ここから、そう遠くはない」
千鶴は、斎藤に付いて行こうとした。
「待ってください。草履を履いてまいります」
「よい、時間がない」
斎藤は、そう言って千鶴の手をとると横に抱きかかえた。
「俺も裸足だ。玄関に廻ると皆を起こしてしまう」
斎藤は、囁く様にそういうと、どんどんと苔むした裏山を上って行った。小さな丘陵の麓の岩の間から湧き水が湧いていた。美しい場所。雪村の泉の源泉。ここから祭壇のある泉に直接つながっている。斎藤は水を掬って飲んだ。
「生き返る。無性に水が欲しくてな」
斎藤に促されて千鶴も水を飲んだ。冷たくて清々しい。確かに生き返る様な気がする。長寿の泉。はじめさんが、夜中に起き出して水を飲みたくなるなんて。深酒をした様子もなかったのに。千鶴は、何度も泉の水を掬って飲む夫の姿を眺めていた。良かった。東京を出てから、郷に来てめまぐるしい。鬼の郷の儀式はなにもかもが初めてのことで混乱しているが、夫の斎藤は静かに見守ってくれている。きっと疲れていらっしゃるのだろう。少しでも、泉の水で疲れが癒されれば。
そんな風に思っていた千鶴を、斎藤は再び抱きかかえた。温かい斎藤の腕の中で、千鶴は床に戻ってゆっくり朝まで休もうと思った。石段を下りた斎藤は、ふと傍らの羊歯の林に分け入って、柔らかい苔の上に千鶴を下ろした。そして、千鶴を抱きしめて深く口づけた。緑の草の香り。時々、木々の中を小さな点のようなものが光る。光る何か。千鶴は目を瞑った。斎藤の口づけは優しく、止む様子はない。温かな腕の中で。千鶴は幸せな気持ちに満ちていた。
斎藤の手はゆっくりと羽織の前を開けて、腰ひもを解いて寝間着を脱がせた。
首筋に斎藤の唇が伝い、腰を抱き寄せるように持ち上げられた。温かな舌の感触が全身を這うように愛撫される。斎藤の背中を温めるように手を伸ばした。千鶴は、押寄せる快感に声をあげた。泉の水を飲んだからか、草の匂いと苔の感触か、千鶴も斎藤も迸る情愛に龍の顎門で交わした一瞬一瞬を思い出していた。互いの暖かい肌に触れているだけで昂ってくる。このまま身を繋げてずっと朝まで、ずっと互いを感じたい。千鶴は辺りの草に手を伸ばして握りしめながら、泳ぐように全身を揺らせている。その律動に併せるように斎藤は全身を動かした。もっと奥に。もっと。己が千鶴の中で溶けるような、そんな絶頂を迎えた時、千鶴は悦びの声をあげて縋り付いてきた。全身が浮き立つような、己が全てを打ち突けるように果てた。痙攣と共に精が迸る。千鶴は恍惚とした表情で同じように震動している。愛おしい反応。再び口づけた。
二人で羊歯の草の上で横になったまま抱き合っていた。
こうして、雪村の郷で。自然の中で肌を合せたのは初めてのことだった。龍の顎門での交歓は、うんと二人が若いころの出来事だった。まだ子がおらず。泉のほとりで存分に日がな一日愛し合った。二人の特別な場所。こうして、二人で草の匂いを嗅ぎながら、抱き合っていると錯覚を起こす。溢れる想いと相手を欲しいと思う気持ちが抑えられず、抗う事が出来なくて。互いをむさぼるように、肌を合わせて情を交わす。
千鶴は、斎藤の背中をさすって温めた。ひんやりとした夜の帷は深く。じっと動かずにいると肌の表面から熱を奪っていく。斎藤も千鶴の腰や背中をやさしく撫でて温めた。斎藤が首筋に顔を埋めるようにして、再び自分に覆いかぶさった。優しく侵入してくる。もっと、もっと。はじめさん、止めないでください。温かな斎藤に包み込まれながら、千鶴は何度も穿たれて悦びの声をあげた。二人の熱は、再び互いを温めあって。辺りが白むまで何度も愛し合った。
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五十五夜の儀
昨晩の宴の後のため、郷の屋敷の朝餉は、陽が高くなってから振る舞われた。
千鶴は斎藤とゆっくりと床の中で休み、子供たちが先に起きだして中庭で遊んでいた。午後から、豊誠は、元服の準備に入る。風間と土方も装束に着替える為、午餐の後はそれぞれが自室にこもることになっていた。
斎藤と千鶴が準備をする母屋の奥の間では、斎藤の羽織袴が用意され、斎藤はさっぱりと朝湯もして綺麗に身仕舞を整えていた。千鶴には、千姫の用意した打掛が掛けられている。その織物と刺繍の美しさは見事なものだった。君菊が、大きな化粧箱を持って現れ、千鶴は髪の仕度から始めなければならかった。髪を垂れ髪にして、鬢削ぎをする。これは千鶴にとっては初めてのことで、ずっと伸ばしていた髪が少しは役立つことが出来ると思うと嬉しかった。
「こんなに、艶々と黒々とした髪。それも豊かな量。油も何もいりまへん。ほんに美しくて、手触り心地がええ髪。羨ましい」
君菊は京に居た頃と変わらずに、ずっと千鶴の髪や容姿を褒めてくれる。ありがたいこと。君菊のような美しく洗練された女性に褒めてもらえるのは、殊の外嬉しい。千鶴は、少しでも美しくなって、斎藤に見て貰いたいという願いが強く沸き起こった。髪が整うと、化粧を施した。君菊は、千鶴には、粉も紅も薄目。土台のお顔が引き立つように、眉を整えておくだけにしましょ。そう言って、極薄くはたいた粉に、鮮やかな紅を小さくさした。艶やかな鬢削ぎで覆われた小さな顔は、一段とその黒い瞳が引き立つ。長い睫毛で眼周りに自然と美しい影が出来て、伏せ目がちで佇む千鶴の美しさに、君菊は溜息しかでない。
それから着付けが始まった。長小袖に長打掛を着た千鶴は、絵巻物から抜け出たような雅な様子で、鏡に映った自分の姿に「わたしじゃないみたいです」と言って、クスクスと笑っている。着替えが終わって先に小十郎と儀式の準備をしてた斎藤は、部屋に戻って千鶴の姿をみて驚いた。
「よく似合っておる」
近づいて手を引いた斎藤は、千鶴の肩に手を廻した。長打掛の裾が邪魔でなかなか千鶴を腕に引き寄せられない。斎藤は、行儀が悪いと思いつつ、足の先で裾を蹴るようにはねのけて千鶴を腕に抱いた。千鶴は斎藤の勢いにくすくすと笑っている。
「抱きしめるのも一苦労だ」
いつになく冗談をいう斎藤が可笑しくて、千鶴は斎藤の首にぶら下がるように抱き着いた。
「重い」
笑いながら、斎藤は文句を言った。本当に着物は重くて、斎藤は上体が折れるかと思ったが、腕の中の千鶴は美しく、その紅を引いた唇を見ると再び欲情が迸ってしまう感覚があった。ちょうど、君菊も部屋をでていって誰もいない。斎藤は、深く千鶴に口づけた。できるなら、このまま事に及びたい。打掛の裾の向こうの千鶴に触れることさえ出来れば。
性急な様子で、腰に手を廻してきた斎藤に千鶴は驚いた。せっかくお着物を着せ付けてもらったのに。そう思うと身を離すしかないと思った。でも、はじめさんと離れたくない。
二人はもたもたと慣れない衣装を着たまま、口づけだけを続けていた。昨夜の羊歯の林での交歓の断像が思い浮かぶ。難儀な事だ。大切な儀式があるのに……。二人が離れられずにいると、千姫の声が襖の向こうから聞こえた。
「千鶴ちゃん、仕度が出来た? ご主人も一緒かしら」
千鶴が返事をしようとしたときには、千姫が襖をゆっくり開けていた。二人が睦む様子を目の当たりにした千姫は、一瞬目を見開いた後さっと逸らすように横をむくと、「ごめんなさい」、と頭を下げた。だがはっと思い立ったように、急に厳しい声になった。
「御取込中申し訳ないけど。北の間に来て欲しいの。風間と土方さんが大変なの」
千鶴と斎藤は、やっと互いに身を離した。みっともないが、千鶴は打掛の裾を持ち上げるようにして、廊下を走った。
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「だから、なんでもてめえの思い通りになると思うなって云ってんだ」
土方の怒鳴り声が聞こえた。
「貴様、人間の分際で、この大太刀に手を触れようなど以ての外」
「烏帽子親ってのは、烏帽子子に刀を授けるのが役目だ。それに、人間も鬼もねえだろ」
風間と土方は、儀式の段取りで大もめに揉めていた。
「風間、あなたが烏帽子を授ける一番大事な役目なのよ」
「だから、土方さんには、二刀を授ける役」
「剃刀は互いに一回ずつ。これでいいでしょ。もう文句はうけつけないわ」
「大通連と小通連は、一緒にして東国の鬼頭の象徴とする。それを人間に差させるなど以ての外だ」
風間は凄い剣幕で捨て台詞を吐くように言い放つと、刀台ごと恭しく持ち上げて、土方から遠のけた。
「なら、俺が烏帽子を豊誠に授ける。親の役目だ」
「俺は、東京で坊主の仮親として生きている。豊誠が立派に元服しようってことに、鬼だの人間だのを持ち出してとやかく言う奴は、はなっから烏帽子親になる資格もねえってことだ」
千鶴は、おろおろと風間と土方の間にはいって困ってしまっていた。
「だから言ったであろう。最初から、烏帽子親は俺様が立てばこのような事にならぬと」
風間を制止しようとする千姫に風間は怒りをぶつけた。
「風間さん、どうか。お気を鎮めてください。鬼の国の主になるには、豊誠は、鬼の国の皆さんのお力がどうしても必要です。烏帽子親に風間さんがなって下さるのなら、こんなに嬉しいことはありません」
「でも、豊誠は人間の世界でも生きています。父親が人間で、ここにいらっしゃる土方さんには、もう一人の父さまのように、赤ん坊の頃から躾や世の中のことを教わって沢山の事を身に付けています」
「豊誠がこれから東国の主になるために、お二方のお力が必要なんです。どちらかが欠けては、豊誠は路頭に迷う事になります。立派なお二方が、あの子の道しるべになって下されば、どんなにどんなに心強いか。わたしに力がないばかりに、なにもしてあげられない……。あの子にどうか、お二人の力を。どうか、どうか」
千鶴は土下座して頭を下げながら肩を震わせて泣き崩れてしまった。
風間は、千鶴の涙の訴えとその道理を納得したようだった。土方に一瞥を送ったあと。
「雪村の御方に免じて、そのほうに烏帽子の授け役を譲ってやろう」
どこまでも、横柄な奴だ。
内心は腸が煮えくりかえるぐらい腹立しかったが、土方は大人らしく、烏帽子の授け役を引き受けた。斎藤は、二人が手をあげるなら止めに入るつもりでいたが、千鶴の仲裁で収まった様子を見てほっとした。それにしても、風間と土方さんの間にはいる千鶴が不憫だった。そっと千鶴を抱き起すと、千姫に、一度母屋で千鶴を休ませると断った。千姫は、一時間後にもう一度、着付けとお化粧に君菊に行かせるからと言って、泣き崩れた千鶴を北の間から見送った。
斎藤は、奥の間で、千鶴を慰めながら存分に情を交わした。
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薄暮の刻に始まった、五十五夜の儀は、参列者が着席の後、千鶴と斎藤が入室し、直衣姿の烏帽子親が二人、同じく直衣を纏った豊誠を連れて入室着席して始まった。
千鶴の長打掛に黒髪を鬢削ぎにした姿に、部屋の者が溜息をついた。西国の長老が、「花の郷の御方様の再来だ」と誰からも聞こえるぐらい大きな感嘆の声を上げていて、部屋の中がざわつく場面があった。千鶴本人にも、そしてその隣を進む斎藤にもその声は聞こえていた。「花の郷の御方様」とは一体誰だろうと千鶴と斎藤は思った。
「剃刀の儀」では、月代を剃る代わりに剃刀を額に当てるだけ。そして、豊誠の濃い藍色の髪は櫛を通されて髷に結われた。短い髪だが土方が器用に持ち上げて風間が元結を結う役目を滞りなく終えた。
それから、三方に載った烏帽子を土方が恭しく豊誠の頭に被らせると、古式ゆかしい習わしで顎で紐を結わえた。豊誠は嬉しそうに微笑んでいた。小さな直衣姿だが、烏帽子を被った姿は平安絵巻の公達の様で、千鶴はうっとりとその姿を眺めていた。
そして、風間が刀台を恭しく近くに運んで、小太刀を手に取った。恭しく持ち上げるように豊誠に差し出すと、豊誠はそれを受け取って。
「我、ここに小通連を我がものとす」
きっぱりとそう宣言すると、腰に差すのを風間が丁寧に手伝った。
次に風間は、大通連を手に取った。恭しく手に取って、向きを変えてから豊誠に手渡した。豊誠は刀を手に取ると、両手で持ち上げて一礼してから、鞘を握って、柄から抜いて見せた。大きな太刀は、一度では全部抜くことが出来ない。袖で抜き身を峰から持ち直して、ゆっくりと鞘をとった。そして、もう片方の手で刃の真ん中を握った途端、剣は光を放ち始めた。眩しいぐらいの光で部屋中が明るくなった。皆が見上げる中、豊誠は落ち着いた様子で柄を持ち直して、刀を掲げた。
「陸奥国の鬼頭、藤田豊誠(とよまさ)、我、ここに大通連を我がものとす」
そう言って、大太刀を鞘に仕舞うと、風間が腰に差すのを手伝って。剣の儀は終わった。
祝詞が詠まれ、五十五夜の儀は無事に終了した。直ぐに、広間での祝いの宴が開かれて、和やかに皆が歓談し時が過ぎた。
土方は大役を終えて、ホッとしたのかいつもより酒の量が多い。斎藤は土方に感謝した。鬼の郷での古い仕来りの中で、自分でも戸惑うことが多い中、このような役を引き受けてくれたことを嬉しく思った。翌日の車で東京に帰るという土方一家は、今夜が郷での最後の夜となるだろう。
「土方さん、お帰りになる前に南の母屋の裏山の向こうにある湧き水を飲んで帰ってください。【長命の泉】です、精がついて元気になります」
「なんだ、龍の顎門か」
土方は察しがよく、冷やかすような表情で斎藤に微笑んでいる。斎藤は、黙ったまま頷いて土方に酒を注いだ。
千鶴は、風間や千姫、西国、東国の長老方といろいろな話をした。雪村の郷の知行は、国庫とは別の場所から下りていること。租税公課の義務の範疇外にあって、それは、八瀬や西国と変わらないということだった。人間の政から干渉は受けない。だが、人間の土地が荒らされた場合、鬼の郷はそれを守る。これは新しい鬼の世の習わしとなった。
日の本を守ること。
これは同時に鬼の世を存続させて守ることに繋がる。人と鬼の間に生まれた新しい棟梁が善い先例になる。
長老たちは皆が東国の主の誕生を喜んだ。
強き善き鬼が生れ
この国を守る
鬼の一族が千年万年の世に続く
千鶴も、長老たちと一緒に祈った。幾年月も、末永く。自分たちがその一助になれることを。
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薄桜の連なりの中で
翌朝、皆が郷を後にしていくのを千鶴は、母屋の玄関で斎藤と見送っていた。
鬼塚が開かれている間は、鬼たちは自由に郷から自国に戻ることが出来た。八瀬の御所車に乗った土方一家は、千鶴たちより一足早くに東京に戻って行った。
郷の泉からは祭壇が外されて、南の離れに移された。郷は人が離れるたびに、いつもの静寂を取り戻しつつあった。豊誠は、不知火と散歩を楽しんだ後に、西国の長老と一緒に郷を去る不知火を見送った。
「原田と夏に日本を出る」
「また、世界一周ってやつだ」
千鶴は、不知火が原田と暫く日本を離れることを知って残念に思った。不知火は、「大将、元気でな」そう言って、御所車に乗り込むと風に乗って消えてしまった。千鶴と豊誠は、消えて行った風にいつまでも手を振っていた。
千鶴たちは、皆を見送った翌日に郷を後にする予定だった。千姫も今日の夜には郷を後にする。風間も、そうだと聞いていた。土方たちが去った後の東の棟を片付けた後に、母屋の片付けと荷造りを始めていた。お昼を千姫たちと食べた後、風間の部屋の膳をさげた千鶴は、鬼の二人の姿が見えない事に気づいた。お出かけなのかと千鶴は思ったが、荷造りに忙しい千姫を手伝う必要があったので、そのまま台所で片付けをしていた。
林の中を豊誠はひとりで駆け回っていた。剛志は、父上が裏山に連れていっていた。ふと、岩から岩へ飛び移った時に急に白い影が前を走ったのが見えた。
「少し、つきあえ」
風間は真っ白な上絹の光沢のある着物に、見た事のない模様の羽織を着ている。豊誠は頷いた。その瞬間、強い風に乗せられて一気に空の向こうに飛ばされた。豊誠は驚いた。隣を進む風間は、その金色の髪を靡かせて、軽く飛ぶ様に風に乗っている。もう鬼塚の結界の向こうに進んでいることが判った。どこまで、西のお客様はどこまで自分を連れていくのだろう。
白い靄が去って自分が足をつけたのは、高い山の上だった。崖ぶちに立つ風間は、真っ直ぐと遠くを見ている。ここは、空の雲より上にたつ高い山だった。雲の海の向こうには、薄っすらと桃色の下界が広がっている。美しい風景。豊誠は見たことがない風景に溜息をついた。不知火と、遠くの海を眺めたことがあるが、目の前に広がるのは、どこまでも続く雲の海とその下に拡がる世界。
「東国はこれから花咲く季節だ」
「西国の春の花は色濃く。梅も桜も色が異なる」
「陸奥国(みちのく)の春は、一気に花が咲き誇る。その色はそこはかとなく控えめで美しい」
風間は豊誠に向かって話しているのか、独り言を言っているのか判らない。豊誠は、静かに聴いていた。
「京の八瀬の外れの山に、桜の古木がある」
「東国の桜のように、二千年、それ以上の間、ひっそりと春になると花を咲かしている」
「そなたの母御と、一度、その桜が花開いているのを眺めたことがある」
「其方の母は薄桜を大層美しいと言っておった」
風間は、隣にたつ豊誠を見下ろした。豊誠は、眩しそうに風間を見上げて頷いている。母上は、お花が大好きだ。家の庭に咲くお花もとても大切にしている。
「大昔のことだ。もう長くあの桜の木を眺めておらぬが、世が変わっても、変わらずに花を咲かせているだろう」
「静かに、誰からも知られずに」
「これが東国だ」
「陸奥国の鬼の棟梁よ。よく見ておくがいい。この薄桜の元に、鬼が暮らし生きている」
「我らが二千年、それより前より生きてきたように、人知れずひっそりと生きている」
「それを守るのが、我ら棟梁の役目だ」
豊誠は頷いた。風間は優しく微笑んだ。
「五十五夜の儀では、其方に鬼の諱を与えずにおいた」
東国の鬼よ。
そなたを「薄桜鬼」と呼ぼう。
この薄桜が連なる国を治めるにふさわしい。美しい国をこのまま、ずっと守るように。
「はい」
豊誠は、背筋を伸ばして大きな声で返事をした。
「鬼の国の父さま。僕、守ります」
子供が口を一文字にギュッと結んで自分を見上げるのを風間は驚いて見ていた。
鬼の国の父さま。
そう呼ぶのか。風間は驚いた。誰かから、「父さま」と呼ばれた事など一度もなかった。郷の民の親方で在る気持ちはあるが、烏帽子子からそう呼ばれると、まるで血を分けた子のような気がするのが不思議だった。
そうか、こうして縁を結ぶものか。
ふつふつと風間の中に温かい感情が芽生えて来た。気づくと手を伸ばして、子供の頭をぐしゃぐしゃと撫でてしまっていた。口を真一文字に結んだまま、直立不動の子供の強い決心と意志が愛おしい。風間はふっと息を吐いて笑ってしまった。そして、それから止まらなくなった。強い多幸感に包まれる。この鬼は、母御から強い何かを引き継いでおる。
崖の上で、風間の笑い声が響いた。豊誠も一緒になって笑った。力強い鬼の父さま。雪村の郷を立て直した立派な鬼だと父上と母上が言っていた。それに風に乗るのがお上手だ。もっと教えて欲しい。西国のことも。鬼の国のことも。
「そろそろ戻ろう。きっとそなたの母御が心配しておる」
風間はまた風に乗って、豊誠を連れ帰った。林の中に降り立った風間は、豊誠が母屋に駆けて行く姿を見届けると、再び風にのって雪村の鬼塚に向かった。鬼塚に、天霧が立って風間を待っていた。結界を通りながら、天霧が風間に訊ねた。
「雪村一家にご挨拶をされずによろしいのですか」
「ああ」
「わたしから昨晩の内にお暇の挨拶はしておきました」
「それならば、よい」
「雪村の娘のことだ。我らが去るとなると、鬼塚まで見送りに出てくるだろう」
「煩わすには忍びない」
「そうは言いましても」
ずっと、風間は考えに耽っている様子だった。天霧はそれ以上は何も言わずに黙々と足を進めた。
「ひとつ、そなたに聞きたい」
「西国の長老が、雪村の娘を花の郷の御方に似ていると言っておった」
「はい、鬢削ぎ姿で薄暗い部屋に入って来られた時には、わたしも御方様かと」
「そなたは覚えておるのか」
「はい、まだ若を身ごもられる前、わたしも子供だった頃、御方様は私の屋敷の裏山へ」
「御付きの者もつけずに忍んで来られておりました」
「裏山に咲く小さな百合の花を見に来たと」
「花が御所望なら、屋敷にお持ちしますと申し上げたら」
「手折るのは可哀そう。こうして野に咲く姿が一番美しい。わたしが花を見に来るから、このままにしておいておくれ。そう仰られて」
「どうか、屋敷を離れたことを誰にも言わないで欲しいと、わたしに飴玉を渡して」
その後も何度も花を眺めに忍んで来られていました。
「我が母が花の郷の御方と呼ばれておったのは知っている」
「はい、花を大層愛でられた。郷の民は、御方様が眺めることが出来るようにと郷中に花を植えて育てた。若が生れた郷は、花に囲まれた美しい場所でした。
風間は、天霧の話す母親を覚えていない。風間を産んだ直後に力尽きて亡くなったと聞いている。だが、風間は母親を覚えている気がしていた。その声を。誰にも話していないが、母の声を覚えていると思っていた。そして、夢に現れる母親は、黒い瞳。少女のような。
黒髪に大きな黒い瞳の美しい女鬼。母親は大層美しかったと父親から聞いて育った。父親は、風間の母を失った悲しみの内に亡くなった。遠い昔。独り取り残された。花の郷で。
似ておるのか。
風間は千鶴を想った。優しく民に接し、自然や花を愛した。どこか雪村の娘が母を思わせたのだろう。だんだんと鬼塚の結界が薄れていく。
東国の鬼の郷よ。美しい薄桜の国よ。
またいつか訪れることがあれば……。
風間は、鬼塚の外に出て振り返った。
そこに、黒い瞳とその笑顔が見える気がした。