「斗南にて」は斎千が祝言をあげて夫婦となるゲームの設定を元に甘い新婚時代を描いたもので、大好きなシリーズです。
中でも、生れて初めて書いた二次小説「斗南の夜」は思い出深い作品です。本にする際、リライトするために読み返して思った事は、ほんとうに拙い。恥ずかしい。当時夢中になって書き上げてドキドキしながらお友達に読んでもらったことを思い出します。サイトにアップしてからも、明らかな間違いや誤字を修正しましたが、処女作記念&初心を忘れないためにできるかぎり、そのままの形で残しています。
「斎藤さんと刀のはなし」も小説を書き始めた最初期の作品です。別のシリーズ「戊辰一八六八」で描いた如来堂からの脱出劇とは異なるファンタジー異聞です。当時プレイしていた別ゲーム(刀剣乱舞や大正メビウスライン)から着想を得ている部分が多くて、斎藤さんの愛刀(鬼神丸国重)を依り代としている神霊のような存在として「池田長兵衛」というキャラクターを登場させています。
当方の小説を読んでくださっている方の中に、上記ジャンル(特に大正メビウスライン)に触れられている方がいれば、あまり違和感なく読んでいただけるかな。池田長兵衛は「濁りなき心に」にもちょくちょく登場しています。
「馬と桜」「斎藤さんと馬のはなし」は、明治期の藤田五郎の設定で騎馬巡察をする斎藤さんを描く必然性があったので書いた物語です。馬に乗る斎藤さんと、相棒として馬の合う総司君の生まれ変わりのような駿馬との取り合わせ。寒冷地で飢餓に苦しむ斗南での生活に少し彩がでればいいなと思いながら、馬と暮らす直家(じかや)での生活を描きました。颯と青葉は、斎藤さん一家が上京する際、五戸の広沢牧場で飼育されることになります。
「夫婦の契り」からめくるめく夫婦の営みを描き、「戯れ事」では甘い夫婦生活の中にも斎藤さんが羅刹であることが影を落とす一面を書きました。斎千が羅刹問題を解消していく姿もその後の「吉祥果」や「龍の顎」で語ることができて良かったです。
比較的最近書いた「居候」や「冬の十五夜」はシリーズの補完的に描いたものです。居候は、会津日新館で見た会津藩の斗南へ移動する姿の想像図(伝聞をもとに描かれたもの)の印象から思い描いた物語です。
ゲームの設定(斗南に移って5ヶ月過ぎた頃)とは違い、斎千が二人きりの祝言を挙げるのは居候の隊士たちがそれぞれ出て行った翌年の春、うんと先なのです。
「冬の十五夜」については、ゲームの斎藤一ルートの斎千の関係性で感じたことを書いています。個人的な印象ですが、千鶴ちゃんが鬼である事について斎藤さんが言及したり気に留めたりしている様子は余り表立って出ていない印象があります。これはルートやキャラ設定の比較で、千鶴ちゃんが女鬼であるという部分に踏み込んで描かれるのは、風間千景と原田左之助、伊庭八郎ルート。千鶴ちゃんも自分が鬼であることをより強く自覚して意識しています。
よく考えてみると、全てのシリーズにおいて風間さんルート以外は人間と鬼の恋物語で、言うなれば「妖と人間」「異形との恋愛」です。異形っていうと、少し差別的な響きがあるけれど、原田さんルートでは千鶴ちゃんがそこに引け目を感じていて、二人の間の障害にもなっています。原田さんは唯一、千鶴ちゃんの傷が癒える事に驚く場面があります。ただ単に驚いていて、それを異質なものとは捉えていなさそう。ですが明確に原田さんは千鶴ちゃんの鬼の特性には気づいています。原田さんルートはそこらあたりの描かれ方が切なくて好きです。
斎藤さんに関しては、千鶴ちゃんが屯所で羅刹に襲われた夜、その場には居合わせていません。対応するのは土方さんと原田さんと永倉さんです。翌日に傷は治りますが(鬼の治癒力)、斎藤さんは朝の内に屯所を出て行ってしまいます(御陵衛士に間者となって向かう)。実質、千鶴ちゃんがどれだけ回復が早かったのかは粒さには見ていない。その後、半年以上離れ離れになって、斎藤さんが戻っても数日後天満屋に行ってしまい、そのまま伏見に移ってバタバタしている内に戦が始まってしまいます。
伏見の戦いの夜に羅刹化した斎藤さんは、意識としては「俺は人ではなくなった」という気持ちのほうが強くて、千鶴ちゃんが鬼であることはあまり気にかけて居なさそうです。
これはその後の展開の中でも殆ど言及されない。千鶴ちゃんが「わたしは鬼ですから傷はすぐに塞がるから大丈夫」と云っても、斎藤さんは身を傷つけてしまった上に血まで啜るのは不甲斐ないと思っていて。罪の意識に繋がっています。鬼の特性や鬼であること以上に雪村千鶴を傷つけてはならんと思っている節がある。
二人のED後を綴る際、どうしても千鶴ちゃんの鬼の特性や、鬼の姿になる場面は避けられないなと思っていました。ずっと長く、斎藤さんは千鶴ちゃんが「鬼であること」をどう受けとめているのだろうと考えてきました。二次創作脳でそのあたりを妄想しています。今回はそのあたりを描いてみました。受けとめているにしても雪の精や雪女郎をみた斎藤さんが、千鶴もあちら側に踏み込んでいってしまうのではと無意識に警戒しているかもしれません。
「寒椿」と「戌の日」は、斎千夫妻が初めて子を迎える準備を始める頃の話。
戌の日の風景は、女衆の楽しい様子(母親になる千鶴ちゃんを囲う八瀬の女たち)に押しやられるような男衆(斎藤さんと馬別当)の構図が最初に思い浮かんで、当初は出産が女を中心に起きる事で、斎藤さんが蚊帳の外のような状態になる。そんな話でした。「おしるしの帯」の儀を描いているうちに、斎藤さんがしっかり話の中心に位置するようになって、父親になる斎藤さんもたっぷり描くことに。
男の人が父親になる実感ってどういう感覚なのでしょう。女性は身体的な変化もあって心身ともに母親になる準備は自然に出来上がっていくような気もします。千鶴ちゃんの境遇から、千鶴ちゃんは夫婦二人きりで子供を産んで育てる覚悟をしていて。斗南時代の二人は、一種現代の核家族に近いような気がします。互いが縁の二人。頼る実家もない千鶴ちゃんにとって、千姫は血を分けた姉妹のようで、とてもありがたい存在です。鬼の血族の結束は強いです。
史実における斗南県のこの頃の食糧難はかなり深刻で、多くの藩士が土地を去ってしまっています。行先として松前藩(新八さんのいる藩)や、開拓使として蝦夷へ渡ったことが記録されていますが、新天地での生活も過酷なものでした。斎藤さんが上京を決めたのも、飢饉続きの土地で子育てをすることが困難だと判断したことが大きな理由だったと伝えられています。
小説の中では斎藤さんの心配をよそに、千鶴ちゃんは二頭の馬と暮らす五戸での生活を限りなく楽しんでいます。